No.636 死を考え生を考える(9)手厚い看護を 2013.3.23 

死を考え生を考える(9)

手厚い看護を 

 それがどれほど凶悪な犯罪者であったとしても、死刑囚にはちゃんと教かい師がいる。彼が求めさえすればいつでも教かい師はわざわざやって来て、一対一で相談にのってくれ、助言もしてくれる。最後の場に臨むときも、宮沢賢治の「雨にも負けず」の一節ではないが「心配するな」と言い、いわざ引導もしてくれる。
 ところが病人が死を恐れ、自分が死んだらどうなるのか、死後の家族や財産や会社や、そして自分自身の行方を案じているとき、だれも相手になってくれない。死刑囚に教かい師がいるのに、死が近い病人に相談相手がいない。こんな不幸なことがあろうか。
 ある病院で、もう余命もいくばくもあるまいと思われる一人の中小企業の社長さんが「業務の引き継ぎをしたい」という。息子さんが専務なので、「専務さんをここに呼んできて、ここで引き継ぎをしましょう」というと「いいや、会社がいい」という。主治医も困ったが、そのとき老練な婦長さんの進言を入れて、思いきってその患者さんを会社に帰らせた。
 その社長さんは早速、社長室に入って息子の専務ほか幹部の社員たちを集めた。そして幹部たちの前で、経営業務を息子さんに引き継ぐ“儀式”をすませ、社員一同に対する感謝と訓示をした。その時から、「社長が死んだらどうなるのか」と沈滞気味だった社内の空気は一変したという。
 さて彼は病院に帰って、「先生、無理を言ってすみませんでした。しかし最後の仕事ができて、思い残すことはありません」と言った。それからの彼の療養態度は急に明るくなり、付きそう奥さんまで明るくなったそうだ。
 病者が死に近づくとき、医師よりも看護婦さんの必要のほうが大きくなるように思う。看護婦さんは医師より一段低いアシスタントのように思っている人たちがいる。これは大いにあやまっているけれども、臨死の状態になったときはなおさらのことである。患者のふだんのようすや、家庭の事情などには、たいてい看護婦さんのほうがくわしい。患者の気分をやわらげ、なぐさめ、いざというとき親類はだれを呼ぶと患者が喜ぶのか、そんなことを知っているのも看護婦さんたちであることのほうが多い。
 ある人は言う。人が生まれるときには助産婦さんが介助する。それならどうして人が死ぬとき、彼を介助する助死婦さんはいないのか、と。
 死を近く感じる人はたいてい心がさびしい。見てくれる人、聞いてくれる人、さわってくれる人、話しかけてくれる人、分かってくれる人がほしい。ところが、腕には点滴の管、口には輸液の管、看護婦さんの手には冷たい医療機器。やむを得ないこととは思うけれど、患者の心は満たされないのである。
 ホスピタル(病院)という言葉の語源は「手厚いもてなし」という言葉からくる。病気をいやす治療ももちろん大事だが、それ以上に忘れてならぬのは手厚い看護である。心のこもった手厚い看護である。
(1988.10.6~19大分合同新聞で連載。全10回)
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by hioka-wahaha | 2014-03-27 10:02 | 日岡だより
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