No.635 死を考え生を考える(8)赦(ゆる)される必要 2014.3.16

死を考え生を考える(8)

赦(ゆる)される必要 

 ボケの医者で知られている(ご当人がボケているわけではない)早川一光さんが書いている。早川さんの診療エリアは京都の西陣だが、そこにずっと住みつづけている婆さんたちにはイケズが多い。そのイケズ婆さんの一人の臨終に居合わせたことがある。そのお婆さん、しきりにまくら元を手さぐりする。貯金通帳を握って死んでいくという例がよくある。だからまくらの下の貯金通帳でも捜すのかなと思ったが、そうでもないらしい。娘さんを捜しているのかと思って、その娘さんが手を出したら、イヤイヤをする。おや、と思ってその家の嫁さんがそっと手を出した。すると、しっかりと手を握って、「世話になったな。すまん」。
 あんなに仲の悪かったはずの嫁の手を握って、イケズな婆さんのその一言。お嫁さんは思わず、死にかけているお婆さんの肩を抱いて「お母さん」と言った。その声を聞いたとたん、「はっ」とそのお婆さん、こときれました、と早川さんは書いている。平素は「あんたの世話だけにはなりません」と言っていたこのお婆さん、実は「仲直りしたい。うらみっこなしで死んで行きたい。イケズだった自分を赦(ゆる)してほしい」と言外の言葉を発しているのです。
 死を間近にするとき病者の心は揺れる。その原因の一つは悔恨である。キリスト教的にいえば罪意識だ。忘れていた昔の悪事、不義理、過失。隠してきた不始末や恥辱、それらを次々と思い出しては自ら責める。そしてこの病気は、そうした罪、過失のバチなのではないかと惑う。そこで罪ほろぼしの寄付や献金をこころみるが、少しも心の重荷は晴れないということになる。
 こうした患者にすすめるのは、“赦し”の体験である。申しわけないと思う相手を招いてわびを言い、赦しを乞(こ)うのである。多少恥ずかしくて、先ほどの西陣の老婆のように遠まわしにわびを言う人もある、それもよい。そうすれば、平安をもって死を迎えられるであろう。問題のケースが異常で、あるいは相手の方がすでになくなっていて、わびを言えないことがある。そんな時は、「神様に向かっておわびしなさい」と、すすめている。
 また、甘い解決法のようだが、当人がたいへん強情なタイプで、どうしても悔恨の対象にわびを言えない時でさえ「神様にだけは、あやまりなさい」と、すすめるがよい。不十分だが、何もしないよりはずっとよい。(牧師として、もっと書きたいことがあるが、省略する。また、他宗教のかたがたにも、それ相応の似た対処があるだろう、とおもう)。
 人間はしばしば過去を背負って悔やみ、その悔恨で未来を不安におもう。未来は人間には見えないが、過去の罪意識や悔恨の対象について“赦された”という平安を得るとき、未来はけっして不安や恐怖にはならない。かえって希望をわかせてくれる。特に死という未来に対して。
(1988.10.6~19大分合同新聞で連載。全10回)
[PR]
by hioka-wahaha | 2014-03-19 21:58 | 日岡だより
<< No.636 死を考え生を考え... No.634 死を考え生を考え... >>