No.632 死を考え生を考える(5)死後の意識 2014.2.23

死を考え生を考える(5)

死後の意識

 数年前、大分市の明野のカトリック教会にヨキエルという神父さんがいらっした。その方から聞いたことだが、ヨキエル神父のお国はポーランドである。さてそのポーランドの田舎での話だが、今でも多分そうだろうと思う、だれかが死ぬと、教区の神父さんがそのベッドのそばに行く。そして死者の耳を両手で開いて、その耳もとで大きな声でどなるのだそうだ。
 「おおい、お前さん、天国に行くんだぞォ」
 これをバカバカしいと笑ってはいけない。死んでいるはずの、その信者さんがチャンと神父さんの声を聞いている可能性は十分にあるのである。
 医師の所見ではすでに意識を失い何の反応もなくなったという患者(いや死人)のしばで、その人の遺産をめぐって兄弟たちが口ぎたなく争い始めた。その口論をみんな聞いていた当の死人が、後で意識を持ち直してプンプン怒って兄弟たちを寄せつけなくなった、などという実例がよくあるらしい(立花隆氏「脳死」参照)。
 死にひんした時、聴力が一番最後まで残る。聞こえているという反応は示し得ないときにも、しばしば聞いているものだという。まして心霊学上の実例になると山ほどある。自分の死体のそばに立っていて遺族たちが悲しんだり、看護婦さんたちが死体処理をしているのをみんな見ていた、などという。
 こういう死んだ人に向かって、初めに紹介したポーランドの神父さんのように、「おおい、天国に行くんだぞォ」と道案内するのは宗教家として、大いに推奨していいことだと思う。仏教には「引導」という言葉さえあるが、「なるほど、引いて導くのか」と私は気がついて、ここ数年来、死に行く人々への「天国行き」の伝道を始めたのである。
 私たち牧師から見れば異教であるので立場上問題は十分あるのであるが、私は実はこの間の実技を「チベットの死者の書」に学んだのである。その本を読んだのはもう三十年も前のことであったが、その記憶がよみがえって来て、ポーランドの田舎の神父さんのなさったことと結びついたのである。
 だから、宗教家でない一般の方々であっても、患者の意識がすでに無い、医師は「ご臨終でございます」といったあとからでも、その患者(もしくは死者)のためにやさしく愛と平和の言葉、見送りの言葉、再会を期待する言葉を話しかけてはいかがなものだろう。ただただ号泣するだけでは、死んだ人は不愉快ではないにしても、実は当惑しているのではないかと思うのである。自分が一度も行ったことのない死の道をよくも大胆に教えられますね、と疑問に思う人もあろう。その答えはまた別の機会に申し上げたい。
(1988.10.6~19大分合同新聞で連載。全10回)
[PR]
by hioka-wahaha | 2014-02-26 15:19 | 日岡だより
<< No.633 死を考え生を考え... No.631 死を考え生を考え... >>