No.631 死を考え生を考える(4)死の受容 2014.2.16

死を考え生を考える(4)

死の受容

 せんだって、日本キリスト教団大分教会がその創立百周年記念を祝して聖路加看護大学学長の日野原重明先生を招いて講習会を開いてくださった。
 そのとき、日野原先生は私たちに慰め深いことを語ってくれた。それは人は死ぬとき、それほど苦しいものではない、というのである。先生は千人以上の臨終を看(み)取った方である。その観察の結果、そうおっしゃるのだから、ホッとする。多分、はた目には悲惨なほど苦しく見える病状であっても、本人の意識にはそれほどのものではないのであろう。
 私は数年前、日曜の礼拝で説教を終わった直後、心筋梗塞(こうそく)に見舞われた。礼拝室は全員が熱心な祈祷(きとう)中の事とて私のことには全然気づかない。私は這(は)って講壇の背後の和室に入り、そこに倒れ込んでいたのである。症状はくわしくは忘れているが胸や首や背など丸太で打たれたように痛んだ。心筋梗塞だな、と自分でも分かった。
 そして、その時、肉体の痛さと死への恐怖は全く別のものだと分かった。肉体の痛さはたしかにきついのだが、そのときの私には死の恐怖少しも湧(わ)かなかった。そうしたことはある程度、ふだんから予期はしてはいたが、実際その事態に直面してみてなるほどと思った。心臓の病気の特質だろうか、意識は平常よりかえって冷静で敏感なくらいである。それだけに死について思いめぐらす精神機能も敏感なはずと思うのだが、一向にうろたえないでいる。このまま天に召されても感謝という心が泉のように湧いたものである。
 これは私が誇るために書いているのではない。いや、前々回の「永遠の生命」のタイトルで書いたような熱情的信仰があれば、死の関門を迎えて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、喜び勇んで、「イエス様バンザイ」と叫んでもいいはずだが、それほどではなかった。この世にこれでお別れかと思うとしみじみ寂しかったのを覚えている。恥ずかしくも正直な告白である。
 このような宗教的平静さや、あるいは歓喜をもってでなくても、実際に死に直面するとき案外人は死を受け入れる力があるものである、ということを実際、他のさまざまな記録が実証している。(牧師としては残念な言い草だが、単に平静に死を迎えるためだけなら信仰がなくても可能である。私が臨死の病者の所に行ってキリスト教の話をせずに、平安に死を迎えるようカウンセリングすることは往々のことである)。
 もっとも、そのためには少々時間が欲しい。先日十月二日、大分カトリック教会にて記念講演された上智大学のデーケン教授の提唱する「死の教育」の必要なゆえんである。特別な人を除いて愛をもってやさしくゆっくり導いて行くなら、それぞれその人なりに自分の死を迎えることができるものである。そのためにも、死の近い病者の方に対しては、よく準備され思慮に満ちた「告知」が必要であると痛感する。
(1988.10.6~19大分合同新聞で連載。全10回)
[PR]
by hioka-wahaha | 2014-02-19 15:51 | 日岡だより
<< No.632 死を考え生を考え... No.630 死を考え生を考え... >>