No.630 死を考え生を考える(3)死後の生 2014.2.9

死を考え生を考える(3)

死後の生

 私が四、五歳のころだったとおもう。お寺の庭で遊んでいて、石段を踏みはずしてころんだ。顔に擦り傷を作って泣いた。その時、おもった。これから先、ずっと生きて、大人になってもずっと生きるわけだが、こんな痛い目になんべん遭うのだろう。ああ、イヤーだな。死んだほうがいいな、と。
 次の瞬間、別の思いが幼い私の脳裏をよぎった。一ぺん死んでも、きっとまた生まれ変わってくるに違いない。あちこちで生まれてくる赤ちゃんはみんなそのようにして死んだ人が、また生まれてきているに違いないんだ、きっと。だから今、死んでももう一ぺん今までの分を繰り返すだけ損だ、死ぬのはやめとこう。こう考えたのである。
 私の両親だちはクリスチャンで、生まれ変わりの輪廻(りんね)思想は持っていなかったと思うので、こうした考えがどこからきたのかいまだに不思議に思っている。私が宗教的に異常に早熟なのか、だれでもこうあるのか、だれかに聞いてみたいと思うことがある。聖書にも生まれ変わりの思想が一、二、おぼろげに出ていないとは言えない。(幼い時に自分はだれそれの生まれ変わりであると自覚している人が時々いる、という。多くは否定されて忘れてしまい、あるいは精神病扱いされて一生をだいなしにしてしまう、ということである)
 大楠(だいなん)公、などと言っても今の人は分かるのだろうか。南朝に従った楠木正成のことだ。この方が足利尊氏との戦いに臨んで死を覚悟したとき、七度生まれかわって朝廷に忠節尽くすと言った。「七生報告」のいわれだが、これを戦前の小学校で先生が教えた。「なぁ、大楠公の精神は明治維新の時や、今度の大戦で、日本人のみんなに生きかえっているんじゃ」。……しかし、これは意味のすり替えである。
 楠木正成は本当に自分は生き返ると信じていたに違いない。吉田松蔭は死罪で首をはねられる時、「身はたとい武蔵の野辺に朽つるとも留めおかまし大和魂」と歌った。彼も死後の生を言葉どおりに信じていた、と私は思う。
 実はほとんどすべての人が死後の生を信じている。知性(アタマ)で否定するけれども、意識の奥底では信じている。「私が死んだら写真はあれをかざってくれ」など老婆が若い時の写真をもちだす。政治家や作家などはあきらかに死後の名誉を考えて履歴などを取りつくろって用意したりする。「死んだらゴミになる」と言った人がいる。この方も十分に死後のことを考えて仕事のけじめや生活の調整をつけ、りっぱな遺稿を書いて死んだ。死後、恥ずかしい思いをしたくない。こう思っている人が、ほとんどだと思う。みんな、心の最深部で死後の生(意識)を信じているのだ。
(1988.10.6~19大分合同新聞で連載。全10回)
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by hioka-wahaha | 2014-02-19 15:08 | 日岡だより
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