No.629 死を考え生を考える(2)永遠の生命 2014.2.2

死を考え生を考える(2)

永遠の生命 

 私は生まれた時、「このお子さんは命はむつかしいですね。一万人に一人もたすかりません」と医師に宣告されたそうだ。その難病が熱心な信仰家の父の断食徹夜の祈りで癒され、命が助かったのだと聞かされていた。
 だから私は若い時、今ある自分の人生をオマケのように思い、いつ死んでもよいと思い込んでいるところがあった。
 それと、二十歳前の多感な時に親友のA君が藤村操(年配の人は覚えておられるだろうか。人生不可解なり、と華厳の滝投身自殺した)的な厭(えん)世哲学のすえ、自ら死を選ぶという事件が起こった。これに私は大変な衝撃を受けた。
 私はよく次の小節を口ずさんだ。ペルシャの古い詩編ルバイヤットの一節、「人生、最大の幸福は生まれなかったことである。次に幸福なことは少しでも早く死ぬことである」と。
 二十一歳の時、私は他の事情で自殺をはかる。この事はまた述べる時があろう。その自殺志向の根底にある幾つかの原因のひとつに、こうした当時の私の心情があったと思う。
 しかし、私には二十二歳の秋、転機が来た。その時、瞬時にして永遠の生命が私の中に流れ込んでくるという体験をした。イエスの命が私の中に脈々と生きているという実感である。その時、私が思わず歌った歌、「イエス君の熱き血汐(しお)の今もなお溢るる思い我が身にぞすれ」。
 永遠というのは、時間をヒモにたとえれば、しっぽの無い地平線のかなたまで続くヒモみたいなものを想像しやすい。それもある。しかし宗教感覚でいうと、もっと充実した栄光に満ちた実在感である。生命感に満ち満ちているから、先が気にならない。赤ん坊と同じである。死ぬことなんか、一向に心配せぬ神経である。
 もちろん、赤ん坊でなく大人であるから、理性においては現実を認識している。だから生命保険くらいはかけているだろうし、遺言状も書いて置く。そんなことは普通の人よりしっかりしているかもしれない。死後の献体やアイバンクの登録くらいもしてあるだろう。
 イエス・キリストが「わたしを信じるものは、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」というのはその事であろう。不死の生命を実感するということが、無知や狂気や自己欺瞞(ぎまん)でなく、事実として起こる。この宗教感覚を特に死に臨んでいる人々に伝えたいと思わざるを得ない。
 
(1988.10.6~19大分合同新聞で連載。全10回)
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by hioka-wahaha | 2014-02-05 15:17 | 日岡だより
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