旅する手紙 第11号(1961.3.2)
自分を見くびるな(3)起筆 61年2月28日
(前々回、前回からのつづき)
最近、U市の教会の伝道集会の看板を出していたら、一人の男がナントカ組という暴力団に属していてそこを出たくて仕方ないのだが力になってくれといわれて、かかわりあいになる事を恐れて何とかかんとか言い逃れしたという、そういうナイショ話をきいて私は充分同情するのだが、然も尚、その教会の人々が、人間の内にひそむ神の力の偉大さに信用していない事を悲しく思った。
人間は、案外イザとなると心勇ましい清らかな存在である。いい例が「死」である。たくさんの人が死を恐れているけれど、案外実際に死ぬ時にはみなショウヨウと平和に死んでいくようである。
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これまで書いた事の要約はこうである。私はよく、自分の犠牲になることを恐れて、その恐れるという事を恐れて身のすくむ思いがするが、実際はしばしば衝動的に突発的に又即事的には、何の恐怖心もなく行動して来た(こともある!)ということである。
そして今から私の言いたいことはこうである。最近、嶋中事件以来、ある評論家は「こんな事をかくのでさえ体がふるえる」というようなことを言っている。これでは益々テロリズムを助長させるばかりだ。テロリズムを消メツさせる最良の方法は国民がテロを恐れないことである。誰でもテロの話をきくのはこわい。想像すると身ぶるいもしよう。しかし決してその恐怖を再恐怖する事によって神経衰弱になってはならない。
最近、あるトビ職の話をきいた、「五十メートルの鉄塔の上に登ると、私達だって下を見ればこわいですヨ。足もすくみますワ。しかし私達はいつも目のまっすぐの線より上を見ているのです。ハシゴを下りる時だって足もとを見やしませんヨ。手もとばかり見ていて足の方はカンでさぐっているんです」という。
ところが、今言論界は暴力的右翼団体より、その足もとを見すかされている感がある。昔、ローマ帝政下でカヨワイ基督教徒たちがどうして目茶苦茶な迫害にたえることができたか、彼らは自分の足もとを見ず天国を仰ぎみていたからである。
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………以上を二月二十八日の夜に書いたのです。その後、雑用が生じて、今は三月二日夜、二日間スッカリこの原稿用紙より遠ざかっていましたら、さっぱり調子がくるって気が抜けてしまいました。又つづけて書きたくなるまで、ちょっと失礼!さようなら。
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この第十一号は、まだ完結していません。続編は、最近の青少年の特長やテロ少年の問題、それに対する心がまえ等いろいろかきたいです。およそ、人の考えと反対の事をいうかもしれませんが、私としては決して冗談半分の事ではなく、深い現代批判になる事と思っています。(終り)
(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。原文縦書き)