No.612 旅する手紙 第1号(1961.2.28)-1 2013.10.6

旅する手紙 第1号(1961.2.28)
 
「信じる」という事について
 
 あるキリスト教の宣教師が
「あなたは神を信じますか、どうですか。人間はあれか、これかと答える以外ありません。さァあなたはどうです。信じるならば救われます。信じないならば救われません。あなたが“我信ず”と言えば救われます。そうでないならあなたは信じていないのです。さァ答えなさい!」
 とある求道者に迫ったという事です。
 その問い詰められた人は今「信じます」といっても、その言葉はどこかウツロで嘘であるようだし、また仮に今信じていると思っても迫害だの嘲笑だのこの世の事情で長続きしそうにないし、それかといってまんざら信じていないというわけでもないし、さぞかし返答に困ったろうと思います。
 その宣教師は、信じるということが、我々の意思で「我信ず」と言ってしまえば済むことだと思っているようです。しかし人間の決心というものがはかないものである事と知っている人は、そうカンタンには行けないのですね。
 イエスが「誓うなかれ」と言いましたが、本当にそうです。誓ってはならないというよりは、人間は誓うことができないのです。できもしないのに誓ったりするから、人をも自らをもいつわることになります。人をいつわることはまァゆるせるが、自らをいつわって気づかぬ人は神もこれを赦すことができません。(神の不可能です。)
 例をあげてみましょう。ここに相思相愛のカップルがあるとします。永遠の愛を誓って結婚します。そして次の日か、或いは何年かあとに男の(或いは女の)心がかわって他に移ったとします。決して心がわりしようと思って心がかわったのでなく、思わず(彼の意思に反して)かわったのです。彼がその心がわりを表明することは(いや表明しなくても)彼はかつての誓いを破ったことであるし、かといってその心がわりを相手に知らせぬことは芝居であり偽善であって、それ自体「愛」ということの真実要求性に反することです。その時、彼は(また彼女は)どうですればいいのです。そしてこの責任はだれが負うのです。
 これは多くの恋愛悲劇の素因ですし、人間の持っている大きな悩みです。心がすでにかわっているのに、相かわらず愛している格好をして、それで真実愛しているのだと、人をもだまし自らもだまされるタチの人はさておき、こういう心の手のつけようもない変化自在ぶりを自ら気づいている人は、さきの宣教師の言葉「信じますか、どうですか。さァ一言信じるといえば救われるのです、キリキリ返事をせい」式の伝道ぶりには閉口するのです。
 こういう時、人によっては、「ハイ、信じます」とキッパリ言ってみたトタン、その寸前アイマイだった心が本当に信仰に入っている人もありますから、伝道のメソッドとしては前述の宣教師のやり方でもいいことが多いのですね。外人宣教師は一体にザツだから、この型が多いのです。(つづく)
 
(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。未発表。15号まであります。)
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by hioka-wahaha | 2013-10-21 09:59 | 日岡だより
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