No.611 (1972.12.6「大分通信」No.9より) 2013.9.29

(1972.12.6「大分通信」No.9より)
(※この号の大分通信には、タイトルがありません、書けば「卓話寸言」だったと思いますが、短文の集まりで構成されています。)
 
 (つづき)
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 「一人すべての人のために死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり(コリント第二書五・十四)。」この聖句が、獄中の私を回心せしめたのであるが、今考えると、その時私は、神の「一即多」の原理にふれたのである。私はその後、あらゆることに於いて、キリストとの同一性に目ざめることによって、信仰の諸段階をふむことを学んだ。それは、あたかもラセン状の階段をのぼるに似て一種の弁証法的上昇運動をくりかえすのであったが
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 イエスは神の独り子である。これが正統的キリスト教の信条である。神に独り子があり、それがイエスなら、他に子供は無い。一つの場所を二つのものが同時にふさぐことはできないという初歩的物理学の原則に似た、初級算数の理づめである。
 「この独り子イエスによる以外に救いは無い。わたしたちを救い得る名は、これを別にしては天下のだれにも与えられていない。」――――これが使徒行伝第四章十二節における聖ペテロの宣言である。これを言葉通りにとると、おシャカ様も、孔子サマも、道元サンも、日蓮サンも救われない。そんな馬鹿な事があるものか。人を救うのは、あのイエスという人物ではない。イエスをキリストたらしめた、そのメシアとしての実存である。それが神の独り子性だ。その神の独り子としての脱イエス的実存が、全世界、全宗教の救いであると、かねてより思っていた。その実存が、「一即多」として、万人共同体験できるし又、万人共同保有の筈のキリスト性であるとしたら、神の子は「独=全」という数式がなりたつ。
 これはいけない。これはいけない。こうして理づめで反キリスト教的な口吻をもらしてみても仕方ないことだ。
 「キリストの死が私の死、キリストの生が私の生」という、起死回生的一大事実を、我が体内に経験しなければ何もならない。
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 息(イキ)をして、ただ生き(イキ)るだけなら、人間はただの動物である。肉体は、イキを出し入れして生き(イキ)る。魂はイノリを出し入れして生きる。それがイノチだ。本当の宗教はイノチの宗教である。愛も善行も積極精神もイノチから発する愛や善行や積極精神でなくてはならぬ。悪魔的愛や善行や積極的精神もある。これにだまされぬことだ。
 「イノチの君を殺してしまった」(使徒行伝第三章十五)のは、なにもユダヤ人ばかりではない。今も尚、多くの人々が自分の内にあるイノチの君を殺してしまった。このイノチの君が復活してくれねば、当然人生は暗い。
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 キリスト教のユニークさは、神を創造者としてとらえ神を人格者として体感し、神を救い主として信じたという事だ。神を仏教的に、無と把握し、真理を箇条書きにした既定的のものと考えず、永遠に到達できぬ無の終局へ辿りつこうとする魂の姿勢と運動をそのまま「真理」と考える、そういう東洋風の求道精神も正しい。地球の歴史は宇宙航行時代に入りかけている。地中海文明、黄河文明時代とはスケールがちがう。宗教のスケールも同様だ。
 座禅して、無の世界へ没入する、それが仏教なら、祈って、神と交わる、それがキリスト教だ。祈らずに、念仏だけ称えて人格神を信じている、それが浄土系仏教だ。どれがいいとか悪いとか言うまい。そのいずれも生きて溶解されて、いきいきとイノチが活動している、そういう新時代の信仰は、今こそ必要なのだ。宇宙航行時代の人類に必ず必要な信仰なのだ。
 (終り)
 
 (「こうすれば信仰がわかる」、2011年6月の日岡だよりにも収録されている内容をふくみます。)
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by hioka-wahaha | 2013-10-04 11:51 | 日岡だより
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