No.610 タイトルなし(1972.12.6「大分通信」No.9より) 2013.9.22

(1972.12.6「大分通信」No.9より)
(※この号の大分通信には、タイトルがありません、書けば「卓話寸言」だったと思いますが、短文の集まりで構成されています。)
 
 毎年、クリスマスを迎える季節になると、変に心は痛みます。世間のクリスマス狂いに憤然とし、教会のクリスマス感ちがいにもイヤな感じがします。クリスマスを何だか他人事のように祝っています。実は、まだ目ざめていない真自我の生みの苦しみと、到来していない世界の真の平和の為に泣くべきなのであります。地球がもだえてうめいているという、宇宙大の悲劇を悲しみましょう。
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 生活汚物と工場廃液が川や海をよごしています。
 同じように、人の吐く息や思いが宇宙をよごしているのですヨ。
 そして、歴史の深淵には全時代の人類の悲しみが堆積しているような気がします。
 本当の、魂のクリスマスを待ち望むのは、全人類の声でしょう。
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 昭和四十八年十二月三日夜、これを書いている。企業合併で、私の経営していた光研印刷(株)を事業閉鎖して、あたらしく大分県印刷センター協業組合をつくった。その新工場のオープンが十月一日で、私はその総務部長の席についた。今、オープン以来やっと二ヶ月たって、少々おちついて来た。長く休んでいたこの通信をぼつぼつ再開しようと思う。
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 私に新しい人生がめぐってきていることを感じる。十年間、チャチな企業であったが、一応経営者の真似事のようなことをしてきた。いい勉強であった。この間、私の信仰はキリスト教のわくをはみだして、東洋風な「一即多」の心境に達したように思う。物を持ち、金をもうけ、人を使う生涯には、ぼつぼつお別れの時が来ているように思う。それが今だ。
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 入れ物がない 両手で受ける   放 哉
 私は、旅行で小豆島の沖をとおる時、必ずこの句を思いだして涙を感じる。私は、放哉と同じように一燈園にとび込んで、しばらく紺木綿の筒袖姿になった事があるので、ひとしお感慨が深い。「入れ物が無い……」そういう人生がよい。そういう信仰がよい。総務部長、そういう入れ物になにがしの月給がはいる。キリスト教、そういう入れ物に、神学、信条、その他いろいろの思想がつまっている。
 私は、信仰の世界で一個の無政府主義者である。無国家主義者である。入れ物が無い……ということである。
 私の信仰は、主観的にはキリスト教を一寸たりともはみだしていると思っていないが、キリスト教界はこれを認めまい。私もまたそれを認めてもらおうとは思わない。私に共鳴し、私と信仰を共にする人は、決して多くは無かろうと思う。しかし、一個半個の人物が私のあとを継いでくだされば、私は幸甚である。その幸福を、今あらためて、主に祈りたいと思う。(つづく)
 
 
 (「こうすれば信仰がわかる」、2011年5月の日岡だよりにも収録されている内容をふくみます。)
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by hioka-wahaha | 2013-09-28 23:16 | 日岡だより
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