No.197 キリストは道である 2005.10.9

キリストは道である

    一、人生という旅の「道」で

 今も尚、時おりテレビで再映される「道」という往年のイタリアの名画がある。「道」という言葉は、私たちに人生を考えさせる。
 イエス様の有名な例話に「良きサマリヤ人」というのがある。一人のユダヤ人が旅の途中、強盗にあった。半死半生の目にあって道のかたわらに捨てられた。そこを祭司も宮仕えの者たちも彼を見て見ぬふりをして通り過ぎた。しかるに、一人のサマリヤ人が通りかかり、(彼らは平素ユダヤ人たちから蔑視され交際も避けられていた種族であったが)、傷を受けたユダヤ人を気の毒に思い、傷の手当をして近くの旅篭屋まで連れていってやった、という話である。そこで、欧米ではこうした親切なふるまいをする人をグッドサマリタン(良きサマリヤ人)と言う。
 先日、こんな新聞記事を見た。調(しらべ)洋介君という22歳の青年だが、豪州でオートバイで夜の道をとばしていて牡牛にぶっつかって横転、即死した。豪州内陸部での夜のドライブは、路上をわたる動物などで危険この上もない、人々はそういう無謀なドライブは避けるのが常識だという。そして洋介君も、その事を知らなかったはずはないという。どうしてそんな無謀な運転をしたのか。意外なことが分かった。
 洋介君はホテルのロビーで、一人の旅行者が「途中でアボリジニの家族がガソリンを切らして立ち往生していた」と話しているのを聞いた。しかし誰ひとり、そのアボリジニを助けに行こうという人がいない。そこで、洋介君はガソリン缶を持ってオートバイで飛び出していったというのである。ちなみにアボリジニとは豪州大陸の先住民族の人たちである。前述のサマリヤ人と同じように差別され軽視されたのだと推測しても、あながち間違いではあるまい。現地の新聞には、この洋介君をサマリタンと呼んで、我々は彼の名前をけっして忘れないだろうとあったという。洋介君は人生という旅の夜の「道」を尊く駆け抜いたのです。

    二、日本人の好きな「道」

 日本人はもともと「道」という言葉が好きである。茶道、華道、剣道、柔道、弓道。私の敬愛するA女史はハガキ道を唱導する。キリスト教でも、キリスト教と言わないでキリスト道という人がある。聖書にもキリスト教のことを「この道」と書いているところがあるくらいだから、それも悪くあるまい。日本人が「道」と言うとき、それが何ものであれ、それを徹底して継続修錬することによって宇宙に内在する普遍の真理を把握しようとする哲学を感じているのである。
 さて、PL教団という宗教団体があるが、昔は「人の道」と言った。たしかに、人の道を教え、人の道を守ることは大切である。なるほどキリスト教でも人の道を教える。「親を敬いなさい」、「盗みをしてはいけない」、「嘘を言ってはいけない」、「勤勉でありなさい」等々。それは人類の諸集団の中での、凡そ共通の倫理規定であり、各人の良心もそれを承認する。
 しかし、聖書が教える福音の骨格はそれとは異なる。聖書は他のところでこう言う、「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」(箴言16:9)。
 聖書の中心をなす神の啓示は、人間の理性や良心では「考え計る」ことが出来ない意図と力を持っている。人間の死と無力に挑戦する神の御心である。

    三、「道」 以 上 の 方

 イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネの福音書14:6上)と。しかし、言葉を逆に配置して、「道はキリストである、真理もキリストである、命もキリストである」とは言えないのだ。ここが問題である。
 イエスはこうも言われた、「だれでもわたしによらないでは、父(神)のみもとに行くことはできない」(ヨハネの福音書14:6下)と。この「わたしによらないでは」という言葉に注意しよう。つまり、肝心な原理は、イエスご自身だと言うことです。このイエス様のご人格を抜きにして、単に「道だ、真理だ、命だ」と言っても、それはキリストの福音の能力や性質を説明したということに留まります。(たとえば電気とかエネルギーとかいう、そのものをズバリを説明することはむつかしい。しかし、その能力や性質を説明することは簡単にできます。それに似ています)。
 世にある高品位の宗教や道徳、哲学、それはそれですばらしいものです。しかし、そこには人格として神の明確な啓示がないのです。そして、諸宗教は熱心に人格的神(唯一の創造主)を求めていると私は思うのです。たとえば仏教ですと、真言宗が大日如来を、浄土宗系が阿弥陀如来という名を択一的に選び、その本体を霧中に摸索しているように見えます。
 この人類を生み出したものが、自然や法則の程度のものであるはずはない。噴水が水源よりも高くあがるはずはない。実に人間を越えて、更に人間以上に人間的な、唯一者たる創造主が居られなければ、私たち人間がここに存在するはずは無い。
 キリストはこの創造主が万物創造の命令をされた、そのコトバの具現者です。もうちょっと言い替えれば、神の内部にあるコトバが神の指として、人の形をとって現れた方、地上の死と罪と悪を癒されるために下って来られたお方なのです。
(1994・4・21、祈祷会にて)


すべては神の栄光のために

 アメリカに生まれた「成功哲学」の通信講座にSMIという名門があります。その創立者ポール・J・マイヤーさんの講演、「人生成功の鍵は目標設定にある」というのは有名です。
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 先日、テレビで黒柳徹子さんの時間だったか、40歳代の俳優さんが出ていて、最近豪邸を建てたという。地下室に映画を映写出来るシアタールームを造ったなどという。それがあまり自慢ったらしく嫌らしくない。聞いていると、私は一生に家を3回建てようと思っていた。これが2軒目の家です。老人になったら、もっと簡素な侘び住まいできる家を建てたいなどと言う。面白いことを言うなあと思っていると、その理由が分かった。
 この人のお父さんはしがない流しの歌い手さんであったが、ある時「さあ、俺は10年したら家を建てるぞー」と叫んだそうだ。1曲歌って幾ら貰えれるのか知らないが、町々を流して歩くこのお父さんが10年目に、かつて宣言したとおり家を建てたそうだ。
 その父親の姿を見て、今、俳優をしているその息子さんは側で身震いしたと言う。
 その感激と、その目標宣言のすばらしさに心を打たれた息子さんは、自分一代で家を3軒建てようなどと奇抜な発想を立てたのですね。まさに「目標設定は人生成功の鍵」です。
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 イエス様は聖書のお約束どおり、ユダヤのベツレヘムに生まれました。そしてナザレという田舎の村で成長されました。父親のヨセフに従って大工の仕事を覚えられ、又その仕事に励んで一家を支えられたことと思います。ところが突然、30歳のころ、伝道に乗り出されるのです。何故でしょう。もちろん、父なる神様の思し召しに従ったのです。そこにイエス様の人生の目標があります。
 イエス様はご自分の人生の目標をちゃんとおっしゃっておられます。マタイ20:28、マルコ10:45にこうあります。
 「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
 まさに、イエス様はご自分の命を捨てるために地上に来られた。それがイエス様の人生の目標でした。だからこそ、十字架の上で今や息を引き取ろうとされる時「テテレスタイ」(「成就せり」の言、ヨハネ19:30参照)と、大声を発せられたのです。
 イエス様は、そのほかにも自分は何の為にこの世に来たのか、福音書に少なくとも18回ほどおっしゃっておられると思いますが、その究極はこの「多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」にこめられています。そしてもう一つ大事な言葉はヨハネ17章に繰り返される「父なる神の栄光をあらわすため」、これこそ又、更にイエス様の生涯の目標、十字架の目標だったと言い切って差し支えないでしょう。しかり、すべては、神の栄光のためなのであります。《く》

〔あとがき〕
最近、10年ほど前の週報を読み返す事がある。今週も1994年の私の小篇を再掲したが、多少ズルを決め込んだ点もあるが、それだけではない。今の私にとって捨てがたい魅力があるので、つい取り上げてみた。読者のみなさん、お許しあれ。▼今月から来月にかけて、当教会をはじめ各教会に特別集会が多い。できるだけ丹念に参加し、多くの恵みを頂戴したいものである。小生も2、3の講壇のご奉仕がある。ご加祷ください。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-10-09 00:00 | 日岡だより
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