No.606 卓話寸言(1972.9.6「大分通信」No.8より) 2013.8.25

卓話寸言(1972.9.6「大分通信」No.8より)
 
(つづき)
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 「聖句密着自主行動不能型殉教精神」というのがある。これがはた目には英雄に見える。たしかに英雄かもしれぬが、イエスの言う自由ではない。イエスの死はそういうコチコチの破滅的死刑希望型ではない。非常に自主的な死なので、それだけに並の人間ならかんたんに逃げを張れる死だったのだ。
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 八月二十七日の日曜集会には、同姓同信の釘宮保兄来たり、そのおかげだろう。すばらしい集会であった。
 それから一週の本日、九月三日の集会もありがたい集会であった。(私の母は今年八十二才で、ぼつぼつコーコツの人になりかけているが、その母が集会後、今日はよかったねエとほめてくれた位である。)
 私は、説教の中で、「私の話はかば焼のにおいをかがしてあげるだけで、本当のかば焼を食わせてあげ得ないけれども──────」と言ったら、あとでA姉いわく、「先生ちがいます。私は今かば焼を食べていますと言って手を上げたかったくらいです」と。こういって下されば、説教者もミョウリにつきる。いつ死んでもいい。私は今の私の説教が立派な説教だとは夢にも思わないが、私にとっては最高の説教であると思っている。私に与えられた神のめぐみがギリギリ一杯語られている。これ以上うまいことを言えばそれは偽善。これ以下を言えば不忠実。語られる内容を聞くのでなく、語らせるものと語らされているものとの間柄に気付いて主を崇めてほしい。
 最近の私の説教、これは私の遺言に等しい。(一九七二・九・三 夜)
              (終わり)
 
※(最後の2段落は「ギリギリ一杯」と題して「こうすれば信仰がわかる」 に収録、2011年5月1日号の「日岡だより」にも再録してあるが、元の形にしてみた。)
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by hioka-wahaha | 2013-09-04 10:52 | 日岡だより
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