No.599 日々新生(六月十六日(日)) 2013.7.7

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


日々新生
  
六月十六日(日)日曜集会は、それぞれ余儀ない欠席が多い。集会も、全体的にゆるみを感じる。「すべり落ちかけたら、意地にでも歯をくいしばって、草の根でも捉えて、それ以上陥落しないようにせよ。処が人間というもの、そういう時、ヤケをおこし、毒食わば皿までと、自分から進んでドンドン落ち込む人多し。心せよ、じっと踏みとどまって辛抱せよ。短くて二、三時間、長くて三日間我慢せよ。必ず回復する」と語ると、みんな、ギョッとした表情。この三か月好調に好調をつづけただけに、ぼつぼつサタンが隙をねらっているな、と感じる。マネージメントの大家ドラッカーいわく「成功はつねにその成功をもたらした当の行動を古くさくしてしまう。」▲深夜K姉難問をかかえてくる。
六月十七日(月)結婚生活に危機がせまった時、解決されるべきは相手にあらず。自分自身。「離婚せずして再婚せよ」―――これが要諦である。人間の努力も必要だろうが、聖霊が働きたまわずばこの事は到底おこらない。そして、この時、霊的友人の愛がいかに大きい介助となるかを教えられた。
六月一八日(火)キリスト教は人格宗教である。モノはイノチとなり、イノチはココロをうむ、というのが進化の道である。ココロが本来の無に帰って没入するのが東洋的回心。ココロが神的人格に会って愛と喜びと希望と熱情にもえあがる。キリスト教の特長である。全体を神の全身にたとえ、個を神の肉体の細胞にたとえるなら、それぞれの一細胞が単に神意識の統制下に入って無に帰し、神と一体になるというだけでない。それぞれの一細胞が個としても益々目ざめ、元気づき、喜びと自由を以て全体なる神意識に交っているという、人格的な旺盛な意識がおこる。こういう人格性がまた、神の人格性でもある。人格の本源が神の人格性(神格性というべきか)にある。「愛」は、人格の交歓にのみおこる。
六月十九日(水)旧印刷工場社屋を好条件で某社に貸すことにきめる。最近一か月の具体的祈りの数々の一つであった。こたえられて感謝する。▲夜は祈祷会。N姉が日赤病院に入院一泊なさり、ご息女が心配しているのをK兄夫妻がお連れして共に祈る。泣いて祈るK姉の愛は尊い。
月二十日(木)旧社屋内の不要品の掃除や始末に近処の方々、何もお願いせぬのに喜々として加勢して下さる。早朝、我が家の周辺の草取りをして下さる方もある。私どもは近所づきあいの上手でないたちであるのに、この好意の数々におどろく。
六月二十一日(金)旧工場社屋を貸家に出すにつき、社長室に入れてあった私の荷物を我が家に引き取る為、私の書斎をつくる事にする。敷金と第一月分の入金の計が、一円もたがわず、造作費の見積額に一致した。そこで、一円も値切らず、工事を発注する。
(つづく)
[PR]
by hioka-wahaha | 2013-07-17 11:55 | 日岡だより
<< No.600 日々新生(六月二... No.598  日々新生( 六... >>