No.595 労働は神聖であるか(続) 2013.6.9

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


労働は神聖であるか(続)  
 
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 「労働に貴賤はない」というのは、昔から人の言うところであります。人のすべての職業を神よりの召命(ペルーフ)として受けとめるとき、あるいは人のすべての職業を人生の宿命(カルマ)として受けとめるとき、人の職業に貴賤のある筈はありません。まして、いわゆる職業と言わないで、労働と呼びならわす時、そこには農作業や鍛冶職、大工職などからくる「土や肉体と汗」を連想させる労働者感があります。そういう労働者感からくる健康感があって、「労働は神聖なり」と大上段をふりかぶった発言も、おこるわけです。
 しかし、現在現実に見る労働は、税額を査定する手も、土地収容の令書をかく手も、利息計算する手も、電力の配電用の針を見つめる目も、デパートで万引を監視する目も、核燃料を発電所に送る脚も、そういうもの一切を含めて、無意味で否それ以上に反人類的反公益的事業の一切を手助けする職業の一切であります。久しい昔では、労働者は奴隷のごとく牛馬のように使われ、その故にその目的がいかなる非道悪逆の用に使われようとも、労働者はそれに組する加虐者ではなく、その対象者とひとしく被虐者である事の実態が主観的にも割合に明瞭でしたが、現代ではちがいます。多くの労働者は、昔で言えば貴族か大金持のように生活しているのです。小じんまりしているとは言え、一応の住宅(それはどうかするとセントラル・ヒーティングを持っていたり、別荘であったりする)に住み、ピアノ、テレビ、自動車。奥さんは三食昼寝つきで、きれいに化粧して満足しきっています。これが抑圧され、虐待され、貧窮悲惨の労働者でしょうか。
 こういう点、現代の労働者は、ワイワイ労働運動をしながら、その実内心自分を危ぶんでいるのではないでしょうか。
 「はて? 俺は真実労働者であろうか」
 私は、この一点に重要な問題があるように思います。実に右の危惧のとおり、現代の労働者は労働者でなくなりつつあるのではないでしょうか。内的な、労働者としての自意識においてであります。
 資本主義社会において、労働者が生産手段を所有する資本家どもに利潤(の一部か大半かは別として)を収奪されるという公式的非道さ以上に、労働者の心を奪われ、そのかわりに資本家の欲心を与えられてしまい毒性におかされた羊のようになってしまっています。
 ここにおいて、労働者は、その労働の神聖さを売りわたしてしまっているかの如き行動と言語表現さえします。そこに、労働者の卑賤さ、無分別をかぎとって、「せめて先生はあのわめき散らす欲張り労働者という奴の仲間であってはならぬ!」と言いたくなる原因があります。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2013-06-14 01:58 | 日岡だより
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