「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-
労働は神聖であるか
共産党が、最近になって「教職員は労働者であるのに違いはないが、ある意味で聖職者であると言ってもいいと思う」と言って、労組関係、特に日教組あたりで物議をかもしています。もともと、日教組で「教職員は労働者である」といって、世間の年配男やPTAママをなげかせていたのに、労組関係の家元とも思われる共産党が、「教職員はある意味で聖職者である」と言い出したので、ふりあげたゲンコの持っていきようがなく、それかと言って、「共産党もいいところある」と言うに言えず困っているところでしょう。
七月の参院選前、私もある会合で共産党の不破書記長に会い、この件をただした処、
「物を生産したり、加工、運搬する一般労働と違い、人間の能力や精神形成に重要な役割を果たす先生方は、ある意味で聖職者と言っていいだろうと思う」
と、答えました。これは、共産党の口調をまねて言えば、実に「ある意味で」、貴重な発想転換でして、教育の重大さ精神性を認めた上で、まことに意義深いことでした。
この共産党の主張に対し、社会党、日教組主流の反対する理由は、直接聞いたことはありませんが、多分次のようなことだろうと思います。
「この、共産党の主張するところは、労働の本質に聖俗の二つがあり、一つは尊く、一つは卑しいとする労働者蔑視の思想である。これこそブルジョワ思想であって、日共は我々労働者の敵である………」
この二つの主張を聞いてみると、共産党は現実論であります。七月参院選前、少しでも票がほしいという現実の前に、労働者の現実像をふまえて、現実論が早わかりする国民大衆にむかって、かくは教職聖職論をぶたざるを得なかった現実があります。
社会党や日教組には、現実を見て見ぬふりして、「かえりみて他を言う」式の政治的発言が用意されています。それはまさしく本質論であり、理想論であります。こういう議論を聞くと、いずれも見物人の人気をねらって音の高い空砲を打ち合っている合戦のようなもので、何の実りは得られないのではないかと案じられます。
しかし、私は思います。共産党はたしかに問題を提起してくれました。社会党、日教組式反論も当初より見越した上での発表なのでしょうから、そこに宮本書記長以下の並々ならぬ読みもありましょう。たしかに現状把握としては共産党がまさっているかもしれません。(つづく)