No.195 オズボーン師のセミナーに参加して 2005.9.25

オズボーン師のセミナーに参加して

 この9月19日から22日まで、埼玉県川口市で持たれたオズボーン師のセミナーに参加してきました。オズボーン師は私の神癒伝道者としての恩人でありますから心を踊らせて行ってまいりました。そのステージ上の先生を私の眼をもって初めて見ることができたのですから、本当に感激でありました。今回の先生のセミナーで学んだ私のノートを簡略にお伝えします。
 第一、先生は本当に聖書を広く、深く読んでおられる。そして、その聖書をまったく信じきっておられる。そのことを私は先生のお話を聞きながらひしひしと感じました。「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学なものを賢くする」という詩篇19篇、7節のお言葉を思い出したことです。
 第二に、先生は「キリスト教は宗教以上のもの、宗教を越えるものです」と何度となくおっしゃった。世間ではキリスト教も宗教の一つと思っていましょうが、先生は違うのです。世にある宗教はおまじない宗教から、祖先崇拝、道徳宗教、そして仏教のような哲学的宗教まであります。仏教はたしかに宗教としては最高の宗教でしょうが、しかしキリスト教は神様の力を頂き、キリスト様ご自身が人の内に宿ってくださる福音であると、先生はおっしゃったのです。
 第三は、聖書の言葉、信仰の言葉を何度も会衆一同の口で唱えさせました、告白です。これこそ私たちが信仰を確実に握り、信仰を生きる秘訣であります。
 先生は最初の夜などはステージに立って、3時間か4時間立ちつくして説教されました。先生はまさしくすぐれた説教家だと感じました。又、その83歳の元気さにも驚かされたことです。《く》

 
無邪気な信仰

 アメリカにはアーミッシュという超保守的キリスト教集団があります。本当か、どうか知りませんが、今でも自動車を使わないで馬車に乗って移動する、そんな生き様を頑固に守っているそうです。
 その頑固さの故に、時にはアメリカの法律に従い得ないことが起こります。その結果、ある時、集団の長老が法律に問われました。この時、アメリカの最高裁判所は、宗教者の信仰を選択的信仰と信念的信仰に区別して審査し、長老の信仰は信念的信仰であると認めて、彼を無罪と判決したというのです。
 さすがアメリカです。こういう司法判断が過去の日本にあったなら、さしずめ兵役を拒否した私なども、たとえ、それが戦争中だったとしても、罪に問われ、刑務所に入れられることはなかったかもしれません。
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 選択的信仰とは神様を信じていながらも、社会生活の現場では妥協的姿勢をとることです。国家の政策や法律を恐れ、世間の評判や視線を気にするからです。
 信念的信仰とは、正しい信仰に立って、世間や、国家や、政府の権力を恐れないで、神様の御心に沿った正しい行動をとる、そういう信仰です。
 私の母が、戦争中、部落の区長さんが伊勢神宮のお札を配ってくると、はっきり断りました。
 私が非戦主義の結果、捕えられた時、参考人として警察に呼ばれましたが、「私の息子は聖書の教えに従ってやったことですから、悪いことをしたと思っていません」と言って、警察は唖然としたと言います。
 日ごろ、気の弱い母でしたが、こういう時、信念的信仰から外れることは無かったのです。母には夫の釘宮太重や、義兄の釘宮徳太郎の聖書信仰に従って、自然体のままに的を外さないところがありました。
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 前述の私の母の信仰の秘密はその無邪気さにある。つまり、愚かなのです。戦時中のような逼迫した時代には意識的にせよ、無意識にせよ、愚かにならなければ、権力や世間の趨勢に巻き込まれてしまう。私の母は、つまり愚かであった。時代の流れを知らず、聖書の教えのまま、戦争はしてはいけないと思いこんでいた。警察の刑事さんも怖くなかったのである。
 まったく愚かになりきって幼子のように神様に信頼する時、人は強い確乎たる信念的信仰を持ち得ます。こう言えば簡単ですが、これは並の知恵のある人には難しい。人類はエバ、アダムの時に知恵の実を食べてから、無用の知恵がありすぎて、愚かな人になり得ない。愚かに徹することは至難なことです。
 この愚かな道とは別として、信念的信仰を持つためには、2つの道があります。
 この強い信仰を持つ第一の道は神様の声を聞くことです。神様の声には権威と力がある。神様が私たちの魂に「平安なれ」と言ってくださると、即座に私たちの心は平安になるのです。かつて神様が私に、「この事を始めなさい」と言われたら、それを聞いた私はとたんに一切の障碍を打ち破ってその業を始めたものです。
 神様の声を聞いて人生の道を開いて行く人は幸いです。しかし、いつも神様からの御声が聞こえるとは限らない。しかし、強い信仰や勇気、神の知恵を必要とすることは、人生にしばしば起こります。そこで、
 第二の道は言葉による信仰の育成です。神様の言葉や、聖書に沿った撰練した言葉を、自分自身に言い聞かせる方法です。私はこの方法を金田福一先生から学びました。金田先生の言うところでは、これはマルティン・ルターの本にあったのだそうです。
 これは又、永井先生に学んだ「告白」の信仰でした。この源流はケニヨンという先生にあるそうですが、へーゲン先生や、オズボーン先生、ドン・コセット先生の本にもあります。お読みになってください。(01.9.9.週報より)
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 前述の信念的信仰という次元は全く内面的な良心の問題です。使徒行伝第15章におけるヤコブの意見は、その点、次元が低いのでして、割礼や不品行や食べものの次元にとどまっています。今のキリスト教界で言えば、禁酒禁煙の問題が、これに似ています。論議を進めれば、アメリカのクリスチャンの保守派に言わせれば、非戦論もその中にはいるかも知れません。
 原罪論に従うと、クリスチャンが言っている罪は内面性の強い倫理感が強く、法律の罪の問題とは次元が違います。法律は外面の行為や言葉に関することですが、信仰上の罪は心の次元を含めます。心の中で人を呪っても、姦淫を犯しても、法律では罪になりません。
 しかし、神の前における罪は、神の正義と、神の愛と、神の聖性と、神の全能を信じ、それに従うか、否かに関わります。
 法律では問われないような、消印を忘れた切手を再使用をするとか、隣家のイチジクの果を一個盗んだとかも、神の正義の前では良心のとがめを受けます。
 人を憎むとか、汚れたことを思うとか、それは神の愛、また聖性に反します。神の声に従わないで世の常識に従うという誰にも有り勝ちな罪も、それは神の全能の力を信じない不信仰の罪だと言われれば、呆然としましょう。原罪論はそこまで詰めて行くのです。
 罪の責任は罰ですが、クリスチャンの罪の責任はイエス様の十字架の贖いによって除かれます。心の汚れは、罪の結果ですが、その責任は除かれたにしても、クリスチャンはその心の汚れには悩みます。少しは清められたにしても、尚も汚れた思いが残っているからです。この苦しみと悩みは、イエス様の内在の信仰に至って初めて解放されます。
 また神様の御言葉に従い得ない力の弱さ、不従順の罪、これを覆いくださるのは聖霊の賜物による能力の付与です。《く》

〔あとがき〕
オズボーン先生のセミナーに続いて癒しの伝道会が持たれましたが、私には時間の制約があり心を残しつつ大分に帰ってきました。当教会から何人か伝道会に参加されましたので、その方々から癒しの伝道会の報告を聞けることと思っています。▼私個人としては、伝道会に出席して癒しを受けたい熱望もありました。セミナーとは言え、癒しのミニストリーも少しはして下さることと期待していましたが、残念なことに些かもその気ぶりもお見せでなかったです(笑)。▼今回の出張中、お世話になった方々のご恩愛に感謝します。またお訪ねすべき方々をお訪ね出来ませんでした。失礼のほど、お詫びいたします。釘宮拝。
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by hioka-wahaha | 2005-09-25 00:00 | 日岡だより
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