No.587 日々新生(三月十八日~)

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


日々新生  

三月十八日(月)内村鑑三流に言えば、ブルーマンディ。世を離れるべきことを、しみじみ訓えられる日であった。
三月十九日(火)H姉を訪問して、玄関さきで祈る。妻はI姉に御伴して病床のN姉を見舞う。意識もさだかならぬ(?)N姉の為に添祷すると、目に一粒の涙が流れたという。ああ、もっと早く、もっと早く見舞ってさしあげるべき人であったのに、今まで延引した怠惰にして愛の無い私どもを恥じた。
三月二十日(水)祖父の五十年忌で本家で仏事。愉快であった。内村鑑三の額「禁酒非戦」を従兄内藤利兵衛氏より頂く。けだし伯父釘宮徳太郎遺愛の逸品である。
三月二十一日(木)春分の日である。本誌第六号印刷上がる。工場が印刷の繁忙期で、つい私の名義のものは、身内の刷り物のつもりで、安心して納期をおくらすのである。早速発送の準備。
▲S姉来て、「先生、この前の集会はよかった、こんどの集会はダメだった、などと言ってはいけない。先生が自分で悪いと思っていても、その集会ですごく恵まれて喜んでいる人もいるのだから。」という。ハイ、ハイ。
三月二十二日(金)長女孝枝の日染展入選の皮革工芸品をはじめて見る。この子の不思議な才能を垣間見る思いがする。神の与え給いしタラントを切実に惜愛して大事に伸ばすようにと祈る。
三月二十四日(日)日曜集会はルカ第七章により「多く赦されたるものは多く愛す」をテーマに。多く愛すれば多く赦されるのだと、逆方向に理解せぬように注意せよ。「神の臨在」そのものが、接するものにとって「赦し」なのだ。と講義。閉会後、座談がはずむ。同僚の不当な圧迫に対し、ただ忍耐するだけがキリスト教徒の為すべき業ではない。愛や英智を以て忍んでおれるのはよいが、恐怖心や卑屈な心で忍耐するのは、神の御名を辱しめる事であると私見を述べた。
三月二十五日(月)S・H姉来訪、勤めさきの企業の非良心的あり方につき問われる。神によって潔められ、且つ強められた良心によって、ヘビの如くさとく対処せねばならぬと答えたが、よかったかな。多くの人にとり、良心とは、自己の内にある「他人の声」にすぎない。他人の声におびえてオロオロしている思念を「良心」と呼んでいる。それはサタンのあざむきである。イエスは言われる、「善をなすと悪をなすと、人の生命を救うと、これをほろぼすといずれか善き」(ルカ六・九)―――、すなわちイエスは善悪の区分は倫理綱領や世間の慣習によらず、ただ人間の生命のプラス、マイナスによって判断された(川喜田二郎の「パーティ学」にそれに似た主張がなされていて共鳴した事がある)。これが分らぬと、戦後の食糧不足の時期に、子供の為にヤミ米を調達してくる貧しい戦争未亡人を責めたてるような人になる。それは、時と場所によって法律の運用によって裁かれる事は止む得ないが、その罪(クライム)を道徳的罪(シン)として糾弾すべきではないのである。そういう場合、罪(クライム)をおかす者の心構えは、一応の社会的秩序をみだすものとしての申し訳なさを謙虚にかみしめて、「誰もが自然に知っている」(Ⅰコリント11・14)筈の社会通念として「正しきことを悉く為しとげるが当然である」(マタイ3・15)をわきまえつつも、然し内よりこみあげる生命拡張の力に従って、ヤミ米を雄々しく強く買ってくるような信仰に立脚する。ルターは「・・・・・・強く罪をおかせ」とマジメ人間に叱られそうなことを言っているそうだが、この辺の消息をも語っているのかもしれない。(終わり)
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by hioka-wahaha | 2013-04-16 23:48 | 日岡だより
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