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No.585 日々新生( 一九七四年二月二十四日~)

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


日々新生  

一九七四年二月二十四日(日)日曜集会はローマ書一~八章よりピックアップしての聖書講義。万物を委ね給う主の福音について語る。その中で性生活について聖交論(正しき性生活は主の御手の上で祝福される。この確信と感謝をもって交われよ。)をぶったのには、会衆の諸君も息をのんだかも。食欲・性欲・家族・職業等々、これら人間としての日常的な事柄を支配できなければ、信仰も羽をもがれた鳥のごとし。(特に食欲と性欲は人類の種保存の為にやむを得ないという事で果たして許されるものであろうか。これは人生の二大害悪だと倉田百三が若い時に悩んだ。この悩みにはまともにぶっつかる必要がある。)終祷にて、婦人方の霊唱が力強くかつきれいであった。
二月二十五日(月)S姉、ご子息が高校をめでたく卒業、挨拶に見えられる。大学入試についての成功を共にいのる。
二月二十六日(火)仏教的に言えば宗教に聖道門の時代と、浄土門の時代があったとする。(1)は世塵を離れ、聖別された道に生きる信仰である。モーセの信仰である。(2)は信心のみに生きる。世の塵、罪と汚れの中にも、お念仏を称えて、ひたすらに天国を渇望する。シンランやパウロの信仰である。(3)第三の信仰はこれだ。(泥の中にでも生きておられる蓮の花どころではない。)泥の中にこそ生き、泥を吸って生きて咲いている蓮の花の信仰。これが現代の信仰だ。社会の全体が総システム化して、悪の権力の中に収まってしまっている現代では、その悪の社会を逆手取って、その中で生きていける信仰でなくては、救真求道の人を彼岸へわたせる事はできなくなっているのだ。
二月二十七日(水)次々とイヤなことのおこる月なり。その中で、心が活然としておれるのが嬉しい。キリストの心が内に生きている。▲暖国の大分県には珍しくぼたん雪がふる。二・二六事件を思い出す。その翌日、つまり今日の日には昇天した伯父釘宮徳太郎を想う。噫! ガンジーのごとき、古武士のごとき、無教会人であった伯父を憶う。▲母は本年八十三才の高齢、若い時よりグチっぽい人で、息子の私の苦労の種。私も又、それに倍して相当の不幸息子であったが。今日の夕刻、突然「今日は一日中、淋しくなかったよ。いつも神様が一緒にいてくださるからね。御心をけがしてはならぬと思ってすごしたら、一日中嬉しくてたまらなかったヨ」という。こんな素晴らしい言葉をはいてくれようとは夢にも思わなかった。母を拝みたい程であった。
三月一日(金)昨日までで、妻は勤めを退職する。今日より家にいて十分勉強してほしい。まぜ坐禅から始めよと奨める。S姉来訪、妻と歓談、共に祈りの時を持つ。S姉の祈祷-「家庭経済の征服・具体的祈祷法」大いによろしい。
三月三日(日)昨日、妻とS姉「日曜集会の為の準備祈祷会」。夜はK姉と妻と私と三人で祈祷と坐禅。今朝は大いに各自が用いられて、すばらしい集会。釘宮保兄遠来にて嬉しい。主題はふざけて「ジャーケンド博士と聖ジャーケンド」。ジャーケンドとは、「……であるけれども」という言葉の大分弁である。祈祷会は大いに振るう。婦人層の霊唱も最近ずいぶん力強くなった。
(1974年4月号「神の息よ吹け」より)
by hioka-wahaha | 2013-04-03 05:41 | 1974「神の息よ吹け」
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