No.577 剥脱の日記<脱落身心> 2013.2.3

「心に満つるより」No.1

剥脱の日記  

<脱落身心>
 「身心脱落、脱落身心」といった道元の心は、よく勉強していないので、禅宗の世界で何と言っているのかしらぬが、私の感じる処ではこうだ。
 身心が脱落する、これが第一歩だ、打坐の禅だ。脱落した身心を以て第二歩を歩む、これが生活の禅だ。人生はこの第二歩のくりかえしだ。
      ×      ×
 坐っていると、玉ねぎの皮のように表面がボロボロ剥げ落ちていく気がする。剥げ落ちていった皮が身心脱落、剥げたあとの、ナンニモ無い処が脱落身心。中途半端な自分はまだここで半死半生、エリコ街道で盗賊にあった旅人のごとし。「汝らはすでに死にたるものにして、その生命はキリストと共に神の内にかくれあり」という事がここにある。
 ここではパリサイ人も律法学者も救うことはおろか、近づくこともさわることもできぬ深刻な「死人」がある。この「死人」の生命は、サマリヤ人によってかついで行かれ、はたご屋にかくまわれる。サマリヤ人とは、社会的一種の「死人」だ。
 死人でなくては死人は救えぬ。(死者をして死者をほうむらしめよ!) キリストは本当の「死人」である。
 半死半生の旅人が、サマリヤ人にかつがれて全く委ね切っている時、これ「身心脱落」、これをかついでいるサマリヤ人は「脱落身心」―――それがキリスト教でいう真のキリストだ。(七・一九)
 以上でこのノートは終わる。
 (1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
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by hioka-wahaha | 2013-02-05 21:25 | 日岡だより
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