No.575 剥脱の日記<一寸の打坐、一寸の仏>他 2013.1.20

「心に満つるより」No.1

剥脱の日記  

<一寸の打坐、一寸の仏>
(つづき)
 「十分祈ったら、十分祈っただけ、私の内に神の国は開けるのである」と。神の国が肉に於いて見えずとも、感ぜられずとも何の感応も形も表われなくても、私は信じぬくのである。私の内に、神の国は来たれりと。
      ×      ×
 「我すでに神の国に在れり」という確信のわく時、「神の権威の下にある」という信仰が可能である。その時、「我」を殺し、神の権威に服すならば、私は神の指となって、神の業を為すことができる。一寸は一寸なりに、一尺は一尺なりに。
 

<神の迷い>
          一九七三・五・三〇朝
私は無である。
私は神の材質より造られ
神の息吹きにより支えられているので
その限りでは私は神である。
されど私は無明の中にあり
世俗におし流され、溺れかけている。
この私は
まさしく迷いの人である。
私が迷っているということは
神の迷いでもある。
もともと、創造は神の迷いではないのか。
私の周辺で神は迷い、
私の中で神は迷い
宇宙いっぱいに神は迷っているのではないのか。
大いなる神の迷いの中で
私もまた迷っている
私はこの私の小なる迷いに目ざめ
(それは私の小なる迷いを離れるという事である)
神の大なる迷いに目ざめ
(それは神の大なる迷いに没入するという事である)
私という存在は、おのれの「本来」に目ざめ、
神の心に帰って、その身、その儘、そこで即座に、
神の国の人となるのではないか。
 
(注)神の迷い=あそび、たわむれ、
いたずら、
創造、愛、支配


<パンと十字架の冥想>
                  一九七三・六・二
 青草の上に坐して、イエスの奇蹟のパンをもらう群衆は、まさしく無為徒食である。「ただ立ちて待つものも神に仕うるなり」とミルトンは言ったが、ここではなんと「ただ座して食するものも神に仕うるなり」である。
 「我はまことの食いもの、まことの飲みもの」と言ったイエスのその奇蹟のパンは、彼の血、彼のイノチを象徴する。ただ座して、イエスの生命を頂戴する、この秘儀こそ、「祈祷、冥想、坐禅」の秘儀であると思う―――。
 わずか五分、一〇分の祈祷でも、これを宇宙をのみこむ程の大きな容量にするには、この秘儀にかかわる信仰が必要である。
 私は丘の上にたつ一本の十字架ではないのか。私の上にイエスを釘づけしているのではないのか。私の本質そのものが、イエスの血を釘とともに吸い込んでいるのではないのか。キリストの血を釘の傷と共にのみ込んでいるこの十字架こそ、神の宮ではないのか。十字架を、ご自身の血をもってそのまま神の宮とならしめ給うその血汐こそ私の生命ではないのか。「釘宮」という姓を感謝しつつ。
 (1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
[PR]
by hioka-wahaha | 2013-01-22 20:44 | 日岡だより
<< No.576 剥脱の日記<リバ... No.574 剥脱の日記<一徹... >>