No.574 剥脱の日記<一徹に生きるか・・・>(つづき) 2013.1.13

「心に満つるより」No.1 

剥脱の日記   

<一徹に生きるか、ドレイとなるか、はた又、奴隷の世界より救われる道ありや>
(つづき)
 現実の対処として原始キリスト教団は、奴隷問題に対しては、「許さるる事を得れば許されよ」という消極的態度であったと思われるが、しかし又、彼らの勢力の台頭により、ヨーロッパより奴隷制度が無くなっていった事も事実であろう。
 さて、資本主義は宗教革命の鬼子であるといわれるが、その資本主義的新世界の綿の畑が、新しく黒人奴隷を要求した。そして、この黒人奴隷の問題が形の上ではどうにか片づく頃、実は全世界が「資本」の奴隷になっている事を発見した。社会として、「資本」に隷属化しているといわんより、全人類がカネの力に手足をしばられ、自由を失っているという事実に目をとめたい。
 今や、我々は何度目かの出エジプトをしなくてはならぬ時代に来ている。
      ×      ×
 昨年末来、原材料不足とかで、インフレーション下の凄まじい買い占めさわぎを生じたあのさわぎは、すこぶる象徴的で、地球上が金の奴隷より脱出しようとしている身ぶるいのように思える。人類の底しれぬ欲望に地球が崩壊すようとしている。その最終期、歴史が転換しつつある時期が今なのだと思われる。

<一寸の打坐、一寸の仏> 
 「一寸の打坐、一寸の仏」という禅語の意味が、最近幾分わかりかけて来たように思う。坐れば坐っただけの、たとえ僅少なりといえども内にひらけるもの、あるいは蓄えられるものがある。心の構えというか、用意の力というか、そういう内側に向かって開けていく光線の矢が強くなっていく―――それはモノがたまり、色が変化し、数字が上昇する、そういう形の事でなく、私どもの心の中にある事実がおこる、あるコトが重ねられていく、それだけの事だが、そういうコトのおこりが仏だし、神の世界なのだと思う。
 私の内に、何度か神のコトがおこり、その経験が、私の心のヒダに刻まれていく。そこに私の聖化がある。そこに私の見性成仏がある。ゆるやかであり、僅々一ミリか一センチか一寸ずつの事であろうが、神の国の拡大がある。
 勿論、私には瞬間における鋭角的回心の経験があるので頓悟ともいうべき、いきなりま尽大地を照らすイルミネーションの如き見性ぶりを想像できぬわけでもないが、今はその事をおく。今の私には却ってこの身このまま、一寸の打坐、一寸の仏という方が、しみじみありがたいのである。キリスト教的に言えば「十分の祈り十分の聖化」である。静かに、おだやかに、確固として、りきみかえらず、あわてず、あせらず、信じぬくのである。(つづく)
 (1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
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by hioka-wahaha | 2013-01-15 20:22 | 日岡だより
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