No.573 剥脱の日記<一徹に生きるか、ドレイとなるか・・・、> 2013.1.6

「心に満つるより」No.1

剥脱の日記 

<一徹に生きるか、ドレイとなるか、はた又、奴隷の世界より救われる道ありや>
 「今日ただ今が大事である」などと仏教で言われる。その日、その時、魂を打ちこめる仕事を持っている人はよいが、そうでない人はどうなるのか。全く、世をはなれて専修念仏、只管打坐すべきか。そう言い切ってしまうのも、一つの信念だと思う。結婚を反対するガンジーに結婚しなければ人類が滅んでしまうではないかときいたら、ガンジーはほろんでもいいではないか、そうまでして人類を残さんでもいいではないかと言ったという。非戦論となえて、最悪の事態では日本がほろんでも仕方ない、反戦平和の大義をつらぬき通す為には。などという―――そういう一徹主義である。そういう一徹主義で世間をはなれ、世間を捨てて、一瞬一瞬俗事にわずらわされずに入魂の仕事をしていく人生があろう。天才はそうして生きてきた。大芸術家、大宗教家、大武道家、大学問(?)家、みんなそういううらやましい人生を生きてきている。それをマネして“Do it!”などと赤ん坊の如く自然に生きようとするヒッピースタイルの生活人も生れてきた。総じて一致している事は、すべてこの世のドロドロした、利欲に癒着し、弱さに足を引っ張られつつ、反目しながら手を組んでイヤイヤながら金と地位に引きずりまわされている生活と断然手を切ろうという態度である。
 小乗仏教の東南アジアでは、人間一生に一度は必ず出家するという風習の国もあるというが、意味のある事である。若いときに一度くらい出家の決意をしてこの世間をつき放して客観しつつ雲水のごとく生きる経験をしなくては人間話にならんと思う。
      ×      ×
 それはさておき、今私の思うのはそういう思いきった出家型に生きる事もできず、この世のキズナの中で奴隷のごとくつながれている一般民衆の生き方である。
 BC2000年、ヘブル人がエジプトの奴隷生活より脱したように、今の奴隷庶民も金のくさりより脱出すべき時がきているのかもしれない。
 ローマ時代の奴隷制度に対し、当時のキリスト教がどういう態度を取ったか、それも興味ある処だ。
 奴隷制度等に対し、原始キリスト教団(主にパウロ)の態度は
①「許さるる事を得れば許されよ」という(オネシモの如く)。それはしかし原典ではこうも訳せるのだ。
②「許されても奴隷でありつづけよ」(他の処でパウロが「人は救われた時のそのさまのままにとどまるぞ良き」と言うのに口うらが合う。)
 すこぶる曖昧な態度だが、結婚問題にせよ、税金問題にせよ(現代で言えば、平和論や労働問題に相当するであろう。)端的で、鋭角的で、反応は早いのだが、しばしば左右両極の矛盾するはげしい返答が戻ってくるのが聖書のくせでこれは聖書の態度が曖昧だというのではなく、この応答を求めた世間の事情の方にかくれた左右の偏凹があるのであろう。<つづく>(1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
[PR]
by hioka-wahaha | 2013-01-08 20:52 | 日岡だより
<< No.574 剥脱の日記<一徹... No.572 剥脱の日記<日本... >>