No.564 肉体をとり給うイエス様(二) 2012.10.28

肉体をとり給うイエス様(二)  

 イエス様はここで御自分が来たるべきメシヤ(キリスト)であることの証拠にイザヤ書を引き合いにして病気のいやしを中心にして仰せられた。イザヤ書の同様の箇所をイエス様は故郷のナザレの会堂でも御自身の預言として語られたことも想起したい。(ルカ4:16~21)
 イエス様がこの地上に来られた最も重要で重大な第一の目的は「失われた者を見つけ出して救うためである」が、その手段は肉体を賭しての購いのわざの完成である。(もっとも私はその霊的戦いを重視するのであるが、それは又、別のところで述べたい)。
 この事はヘブル人への手紙第2章10~18節を読んでいただくとよく分る。特に次の言葉を挙げておきたい。
「(神がイエスに賜わった人の)子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。(中略)そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」
 (ヘブル2:13~18)
 ここにも表れているようにイエスのお仕事の第一は、民の罪のあがないである。しかし次に記されるところは悪魔よりくる死の恐怖、その力による奴隷の状態、さまざまの試練をイエス御自身の民の子らと同様の血と肉を持ち、同様の苦しみを受け、その苦難をとおして多くの子らを栄光に導くのは父なる神(の智恵)にふさわしいことである(ヘブル2:11)というのであるが、つまり約言すればイエスのお仕事の第一は人の子らの罪のあがない、第二は肉体のいやし、サタンからの解放ということでなかろうか。次はつい教義として上げないことが多いが第三としてあげたいことである。これも大切である。
 イエス様の地上での御生活をとおして次代の人々の模範とする。旧約聖書の律法や教えの中の廃するもの、新しい解説、又、イエス様の新しい戒めと教え、聖霊様について、又御自身の再臨についての約束、こういったことである。
 ともあれ、今回書いたことはイエス様は肉体をとっておられる神であること、その故に罪のゆるし、いやし、解放、地上の生活の模範、そういうことが可能であったということである。
 以上、私の試論である。
 
 〔終りに〕これは1995年4月5日より4月20日まで、約半か月入院していたとき、ベッドで書きつづったものの清書もせず、ワープロにもせず、むさくるしいままの私のごく内輪むきのエッセーである。
 文字がへたで、且つ見苦しいのは、私の最もつらい点であるが、それにしてはこの拙稿はよく書いてある方である。笑ってください。(95年5月4日拙宅にて記)
 
 
 〔先週と今週は、珍しく直筆で書かれた文章がコピーによる小冊子として残っておりましたものを、日岡だよりといたしました。終りに書いていますが、父は本当に字を書くことに苦手意識がありました。それこそいつもの信仰はどこに行ったの?と言いたいくらい、文字に関しては自信がなかったです。いっしょうけんめいの手書き文章をそれこそワープロ化してしまうのは多少残念なことでした(笑)。せめてタイトルだけでもスキャンして載せておきます。
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 さて、週刊の、印刷された日岡だよりはこれで最終号となります。今後は、過去に書かれた釘宮牧師の文章(タイプ印刷の時代のものなど)をワープロ化していくつもりですが、多少まとまってから印刷することにします。途中経過として、メルマガとインターネットでは今までと同様に週刊で公表していきたいと思いますのでお読みになってください。(釘宮せつこ)〕

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by hioka-wahaha | 2012-10-30 21:38 | 日岡だより
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