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No.563 肉体をとり給うイエス様(一) 2012.10.21

肉体をとり給うイエス様(一)  

 復活されたイエス様のお顔や体のお姿には主をよく知っているはずの弟子たちを戸惑わせるほど、ずいぶん地上におられたときとは異っていたらしい。しかし又、小学校を卒業して後、久しく会わなかった級友もしばらく話していると「ああ、やっぱり君だなあ」と感嘆し、しかも会話がつづくうちに彼らしい人格の特徴もあらわれてきて、ひざをたたいて「ほんとうに昔の君と少しも変らない」というようになる。その頃に整形手術したのではないかと思うほどに変った彼の表情にも、また体のしぐさにも、まさしく彼だというようなその人の特徴を見出すのであるが、それと同じようにイエス様のご様子もあったようである。
 その復活後のお体は戸を閉ざされた家の中にも何の障碍もなく入って来られたり、また急に消えて行ったり、遠距離の移動も自由であられるようで神出鬼没、その辺はなんとも不思議であるが、しかし単なる霊ではない。
 イエス様は弟子たちにこう言っている。
「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。(ルカ24:39)
 こうおっしゃってから、何よりの証拠という風に焼いた魚の一きれをとって弟子たちの前で食べられたとある。
 
 このイエス様は40日の後、オリブ山より天にのぼられた。その帰って行かれた天において、イエス様は今もその不思議なお体でいられるのだろうか。私は「そうだ」と信じている。
 インドの聖者(と呼びたい)サンダー・シングは彼の最初の劇的回心の時、地下室でパウロと同じようなイエス様との出会いをするのであるが、その時のことを彼は次のように証言している。
「私はこれまで何度も幻を見た(彼は毎日霊界に入った稀有な人である)、しかし最初あの地下室でお目にかかれたイエス様はけっして幻ではない。そのとき、主はまさしく主御自身、その肉体をもって来られたのである」
 ダマスコ途上でパウロに会われたイエス様もあるいは同じように肉体をもって現われなさったのかもしれない。それはともかく、
 私は三位一体の神の中で父なる神には体は無いと信じる(その点、私はベニー・ヒン先生と意見が違うのではないかと思う。どうも西洋の方は三位一体の神をバラバラに分けすぎる、三体一位的に説明しやすい。われわれ東洋人は逆に一つにまとめやすいであろう。言えば一体三現論になる)。
 父なる神にお体があるとすれば、この万物そのものが神の体と言えようか。この私たちの宇宙、もしありとすれば、その他の宇宙、そして「天の諸天」というようなあらゆる霊界と天界、それらを含めて全く何物もない無の世界、そこも神の「有りて有る」御存在の原質が満ち満つる世界が、神の体であろう。しかし人間の体と本人の霊との関係に似て、神の体は神の表現の一面であるが、その体が神なのではない、この最後の一句は大切である。(この神の体の論議は私の知的仮説であって、その正否に自信はない。今のところ、御言の保証も見当たらない)。
 体が無いということについて、聖霊様は更にまさしく霊的在り方をもって存在し、体は全く無いのだと信じる。
 しかしキリストは違う。初め、キリストは御言として神の前におられた(ヨハネ1:1、ここで多くの各国語聖書が「神と共にあった」と訳してあるのは重大なあやまり。神学的にも大事な切点であるが、この辺のことは又、別の機会を期待したい)。そして万物を今われわれが見る物質世界を創造された。そのとき、ご自身をも肉体的存在として造られたのではなかろうか。
 旧約聖書に見るエホバ(学問的にはヤハウェと申し上げるのが正しいのだろうが)の神はしばしば姿形を見せ、人の供えたものを食べておられる。この方こそ先在のキリスト様でなかろうか。(創世記18:1~8等)
 私はこのエホバの神様こそ「我は汝らを癒すものなり」と仰せられたことに感激を覚える。モーセは主の言葉を書き写すにあたって、決して神とは書かなかった、エホバと記したのである。
 「我はエホバにして汝らを医すものなり」
    (出エジプト記15:26下、文語)
 この辺から私の書く文章は強引で、決して定説ではないし、はっきり聖書に示されていることではない。それかと言って私の恣意な憶説でもない。私としては聖霊様の御啓導を感じている。
 イエス様のところにヨハネの弟子たちが来て、「待つべきメシヤはあなたですか、それとも他に待つべきですか」と師の問を伝えたことがある。その時の聖書の記事は次のとおりである。
「そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。(ルカ7:21~23)《く》
(1995年4月記)
by hioka-wahaha | 2012-10-23 16:47 | 日岡だより
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