No.560 信仰とは明日を神に待ち望むこと 2012.9.30

信仰とは明日を神に待ち望むこと 

 昨日は既に過ぎ去りました。最早、ありません。明日はまだ来ていません。何もありません。今在るのは、今だけ!
 とは言え、過ぎ去った凡てのことは漠然とだが心に残っています。いえいえ、何もかも忘れやすい私たちですが、それでも潜在意識の何処かには何かが残っているでしょう。それが私たちの魂というものです。
 私たちは、よく心と呼びますが、心は一般に「思い」のことですね。しかし、思いを動かしている底にある力は「魂」と呼んで良いでしょう。そして魂のもう一つ底にあるものを「霊」と呼ぶことができると思います、どうでしょう。
 人間一人一人の、それぞれの意識の奥底にある「自己」あるいは、「自我」と言いましょうか。それは、どなたでも試みて下さい、その「自己」と言うか、「自我」と言うか、その「己れ」自身を探ってみると捕まえどころが無くなります。スルスルと逃げて行ってしまう。まことに掴みにくい。確かに現にここに在る自分自身なのだから、ここに自分の肉体が在ることは間違いないのだが、その自分の意識があるだけで、自分自身の存在を把握しにくいのが実に不思議です。
 これは何だか言葉のやりくりで皆さんを迷わせているようで申し訳ないのですが、お互い自分自身の内側を探って行くと、こういうことです。昔の日本人は、「心とはココロ、つまりコロコロと申し、掴みにくいもので御座る」と言ったものです。
 この掴みにくい心の奥底にある真の自我、それが魂、もっと深く求めれば「霊」ですね。これが本当の「自我、己れ自身」です。この「掴みにくい」ということを、言い直せば、「無」ということでしょうね。人の霊は無の状態ですから、把握しようがありません。掴みどころが無い。それが、人の霊です。
 勿論、神様の霊もそうです。聖霊様は言っては失礼ですが、掴みどころが無い。しかし、力がある、宇宙全体に満ち満ちている。その神の霊が、人の霊にちょっとでも触れると、大きなことが起こる。最初は小さな接触かも知れませんが、最後には偉大な結果を来たらすのです。
 信仰の最も貴重な恩典も、最初はこの小さな「神の霊との接触」だったでしょう。しかし、最後にはこの偉大な偉大な結果をもたらすのです。
 信仰とは、何かの信念らしきものを持つことではありません。神の霊に触れることです。自分の人間的決意で信念を握るのではありません。神の霊に触れるということ、それは如何にして起こり得ますか。先ず第一番は神様ご自身が私たちに臨んで下さることです。そして、あなた自身がそれを切に望み期待して、祈ることです。《く》



《戦時信仰日誌》 (昭和二十年二月十六日起)
 
 使徒行傳第十六章に於けるピリピにてのパウロ及びシラスの迫害の記事は我らに多くのことを教へる。
1.衆俗が使徒達に害を加へるのは利を得る望のなくなった故である
2.獄にても何處にても神を讃美せし使徒達の美しさ
3.早くも、主の恩寵が示されし事
4.また、たゞ使徒達の讃美を聴いてをった囚人らにも同様の恩寵があたへられた事
5.事態の急を見て、自決せんとせる獄守の真剣さと絶望と
6.逃げたと思った者がこゝに在る、追ふより先に、却て自分に呼びかける、「我らみなこゝにあり」と
7.然して守伏す態度がなければならぬ。そして我ら何と為すべきか
8.何を為すべきかといふ問ひに対して使徒の答へは「信ぜよ、たゞ信ぜよ」である
9.然し、信ずるには先ず語られねばならぬ。決して我らの直観によって、亦思索によって、求めらるべきものではない
10.見よ、信ぜしのちの彼の行動を見よ。我ら何を為すべきかの答へを。今彼自身がはっきりと示してゐる
11.全家と偕に、然り全家とともに神を信じた
12.信じて喜びたる美しさよ
喜びなき信仰といふものはあり得ない。眞の信仰は常に喜びをもたらす

 若しも我々の感情によって我々の信仰が左右されるのであれば、誠に我々の魂は危険な位置にあると云はねばならない。
 我が感情に関係なく、主よあなたの眞実により、我らが救ひの完成さるゝことを信じ得るを感謝致します。
 神よ、常に我が弱き魂を守り給へ。あなたに従ふ事を得せしめ給へ。
 (つづく)
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by hioka-wahaha | 2012-10-09 20:01 | 日岡だより
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