No.550 魂の救と肉体の癒し 2012.7.22

魂の救と肉体の癒し  

 聖書を拝見すると、イエス様の御働きの殆どは、福音の御説教と、信仰生活の御指導と、病気の癒しの実施であったと思われる。特に癒しを求めて来る病者たちへの優しく強力な治癒のお助けは見事で、民衆に大きな驚異と賛嘆をもたらせた。
 現代においても私たち教会の仕事のすべてはこれでなくてはならないと、私は思っている。繰り返すが、福音の説教と、信仰生活の指導と、病気の癒しの三つである。私はこれを実践したい。
 福音の説教とは、はっきりとイエス様の教えを具体的に提示することである。つまり福音の内容が聞く者の魂のどん底に食い込まなくてはならない。そして聞く者の生活に強い変革を与える。キリストの命がその人の内に生きて働くのである。そうすると信じる者の生活が活気に満ちて来て、廻りの人々も驚かされる。本人や家族の病気も癒され健康に、職業と経済が祝され豊かに、生活が明るく楽しく、社会的に伸びやかに発展する。
 信徒の皆さんが生き生きとして、会社や職場で勝利的に仕事をこなし、廻りの人々に「クリスチャンって素晴らしいなあ」と思わせるような人になる。家族も「うちの人は凄い」と感心してくれる。「あんたは凄いね」とほめられると、「ありがとう、これイエス様のおかげよ、信仰のおかげね」とさりげなく返事できる、すると、「あら、本当? 教会に行ったら、あなたみたいになれるの? いいわね」
 「あら、いらっしゃいよ。私、ご一緒するわよ」と教会にお誘いもできる。
 こうして、信仰生活を素直に、実直に、伸び伸びと成長させたい。
 「お母ちゃん、いつも楽しそうで、あたい大好き」と子どもに言われたら、「そう、有り難う、イエス様のお陰ね」と答える。
 「そうだね、パパもこんな母ちゃん、大好き」とお父さんが言ったら、
 「そう? パパも教会に行ったら?」と言われて、お父さんが照れていたという話もある。どこのご家庭も「お父さん、教会にいらっしゃい!」
 教会へは、どうぞ御家族そろってお出でください。これが家庭平和の秘訣です。そのためには、どうしても教会にお出でにならない旦那様のためには奥様はどうなさったらよろしいのでしょうか。
 「あなた、教会にいらっしたら、よろしいのに」とお勧めするのも結構ですけれども、実はご主人が奥さんを「さあ、教会に行こうじゃないか」を手を差し伸べてさそってくれているような姿をいつも奥さんが心に絵を描いて期待していると良いのですね。必ず、そのような日が来ることを期待して祈っていましょう。《く》
 
 
日々新生  

一九七三年十一月二十七日(火) 映画「ソイレント・グリーン」を見る。二〇一五年のニューヨーク。大洋壊滅、食糧危機。遂に人肉をクラッカーにして食わせるという筋立て。人肉を食うというだけで拒絶反応をおこすキリスト教徒国の映画らしい。私はかえって、人民の目をふさいで、人肉クラッカーを食わせねばならぬ為政者の苦悩を想う。これこそ現代の政治家の苦悩かもしれぬ。人間がふえ、人間が生きることが罪なのだというカイン文化のもとでは「生めよ、ふえよ、地にみてよ」という祝福はのろいでしかない。
十一月二十八日(水) この十年間、俗事の世に没入し、金もうけを当面の仕事とし、その混濁の中で生きる心技を身につけてきたつもりであった。しかし、このモノ不足の時代はつらい。悪い予感を感じさせる。狂気が脳裏をかすめる。
ニューソート風な、生長の家式な、積極心理学(?)風な、そういう精神強化・思い込み術で「富・家庭の平和・健康」を得ることは可能かも知れぬ。特にアメリカや西欧、日本において。しかし、バングラデシュ、ネパール、ベトナムではどうだろう。目の前に難民を見て、自分だけの現世的幸福を想念することができるというそのことで既に私はその心の不健康を感じる。
十一月二十九日(木) 自由とは何か。「私」の自由ではない。「私」の中にとじこめられている神の霊に自由を与えることである。文楽の人形にとって彼の自由とは、背後にいる人形使いの自由である。人形をあやつるものに自由を与えなければ、人形の自由はない。
十一月三十日(金) 僕らの常識的「生命」観は、全く「神話」的であるような気がする。「生命」を「有る」唯物論的な有と思っているのは、迷信(?)なのかと思う。「時間」や「空間」は、無条件、潜在的な我々の環境であると思う。そして「生命」もそういうたぐいの解きがたいものであると思う。「生命」は、物質の一つの相にすぎないのかな。「生命」をこまかく分析してさぐっていくと、いつしか「生命」は見えなくなり、「物質」だけが残る。その「物質」を更にこまかく分析してさぐっていくと、その「物質」すら無くなり、「場」だけが残る。そこに、キリストのほのかな輝きが見えるように思う。
十二月一日(土) M君の結婚式に招かれて臼杵市の喜楽庵にいく。控室に、「無一物中無尽蔵有花有月有楼台」の額あり。一燈園時代以来、見慣れた禅句なれど、無一物とはキリストのことであったわいとこの日初めて悟った。
十二月二日(日) 日曜集会はピリピ書講義。キリストと共なる生活を説く。
<つづく>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-07-24 14:12 | 日岡だより
<< No.551 神様と仲良しにな... No.549 福音の力 201... >>