No.547 【聖書講義】 死人の中より甦れ 2012.7.1

【聖書講義】 
死人の中より甦れ   

 <前号よりつづき>
 私の内にあって、私のものでない「キリスト・イエスの○○」――― これが我らの人生の秘訣です。「キリストの智恵、キリストの力、キリストのやさしさ、キリストの聖、キリストの正義、キリストの諧謔、キリストの喜び、キリストの平和、キリストの富、キリストのあわれみ、キリストの悲哀、キリストの勇気、等々」――― それが、私どもの内に一杯に満ちないでしょうか。「イエス・キリストの義の果をみたして」(ピリピ一・11)神の栄光をあらわす人生の誉れが我らに可能なのですよ。
 
           三

 ピリピ書第三章8節~11節を読みましょう。
 「然り、我は我が主キリスト・イエスを知ることのすぐれたるために、凡ての物を損なりと思い……、これをアクタの如く思う。これキリストを獲得し……、キリストの内に自分を見出し、キリストとその復活の力とを知り……、いかにもして死人の中より甦ることを得んが為なり。」
 
 すばらしい文章です。この文章の中心は、「キリストを獲得し」です。キリストはキリスト教の中心眼目です。このキリストを獲得することがキリスト信仰の中心です。キリストが我が内にあるから、「キリストの英知、キリストの権威、キリストのいやし、キリストの生命力」が内にピチピチ生きて、我が人生は最高潮なんです。この最高の味を知っているから、パウロはすべてのものをふんのごとく思うのです。
 愛するものは、恋人の為に夜半遠路をゆくをいとわず、音楽を愛するものは大枚五千円を払っても演奏会に行きます。私は毎朝早くおきて三十分から一時間くらい坐禅しますが、それがたのしいから、寒いのも、眠いのも苦になりません。
 
 だから、信仰とは難行苦行じゃないのです。世間の人の知らない喜びがあるし、充実があるのです。遠藤周作ごとき偽悪偽小趣味の作家の知らない偉大さがあるんです。信仰とは決して弱心卑怯の中に居すわっている無力感の信仰じゃないのです。力があるのです。武威堂々の人生です。
 
 ここで大切なのは、「我はわが主イエス・キリストを知ることのすぐれたるために―――」と言って、内にありありと生きて下さる主を知っている。その喜びの故に、主に反するものをポイポイ捨てることができるという、パウロの尊い体験です。こういう言葉を上っ面だけ知って、それをサル真似して泣きの涙で大切なものを捨てている、そんなのじゃないのです。知識じゃない、体験です。
 
           四

 「キリストを得る」という事と、「キリストの内にある自分を発見する」という事、この二つの言葉は同一のことです。これはもう一つの言葉で言うと「キリストと共なる」という事です。ギリシャ語で「スン・クリストース」で、パウロ特愛の言葉です。
 ある聖書学者は「スン(共なる)」を「魚が水の中にいるような状態」と説明しました。私は「バプテスマされる」という言葉もいいと思います。酒に酔うという時、酔うという言葉を「バプテスマされる」という言葉を聖書は使っています。「アルコール漬け」とでも言いますか。酔酒漢がアルコールと共にいるように、キリスト漬けにされている状況が「キリストと共なる」状態です。
 パウロは言います。「酒に酔うな、むしろ聖霊に酔うべし。」酒に酔った程にも、聖霊に酔ったことのない人間が、これを言うとおかしいのです。四角キチョーメンな顔をして、酒抜きの堅苦しいクリスチャンの会食には閉口します。(勿論、聖霊漬けのない場合のことですが)
 
 「キリストと共なる」という時、パラクレートスという(なぐさめの主とか助け主とか訳される)イエスの用語の関係もあって、多くの人は、傍にいてくれる方、くびきの片方を肩にしてくれる方、二人三脚のように共に駆けてくださる方、そういうふうに思っていると思う。それも正しいが、それ以上に私は「中にいます、共なる方」を指すと思う。
 
 エジソン発明する処の、白熱電燈を見なさい。フィラメントを電流が貫流する時、フィラメントは、フィラメントの儘でありつつ、電気を貫流させて、光を発する。同じように、私の内に活けるキリストが住み給う時、私は私の儘にキリストの光を発する。これが、キリストの栄光だ。私の聖化だ。「我らの卑しき状の体を化えて、おのれが栄光の体に象らせ給わん(ピリピ三・21)」ということだ。
 
 別の例を申しましょうか。私が魚を食べるとする。魚は私の胃袋から腸を通って、遂に私の体になる。魚を私と一体です。私は魚を「獲得」したのです。魚の方から言えば、魚は私に食されて遂に私の内にある自分を発見します。イエスはご自身を真の食物、真の飲物だと言いました。実にイエスは私共に食され飲み込まれて私共の内に生きることを望まれた。また、ある時は、私共がイエスの食物であり、世の人の知らぬイエスの真の食物であると言われた。私共は、イエスに愛され、主の中にかくされ、主の中に実在する自分を発見する時がくるのです。
 
           五

 ピリピ書第二章14節を読みましょう。
 「是、なんじら責むべき所なく素直にして、この曲れる邪悪なる時代に在りて神の瑕なき子とならん為なり。汝らは生命の言を保ちて、世の光のごとくこの時代に輝く」
 
 白熱電球にたとえると「電球は、そのフィラメントが断線することなく、錆びることなくしてその内に百ボルトの電流を保って、このくらやみの部屋に明るい灯として輝く」
 <つづく>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
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by hioka-wahaha | 2012-07-03 16:21 | 日岡だより
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