No.545 いばらに薔薇が咲き満ちる 2012.6.17

いばらに薔薇が咲き満ちる   

 「いばらに薔薇(ばら)が咲き満ちる」、
 10年ほど前に日本で翻訳出版された本です。「神秘主義とキリスト教の将来」という副題がついている。読書家の私にしては珍しく、なかなか読み辛くて、これまで読んでいませんでした。皆さん、如何ですか、一度、手に取ってお読みになってみませんか。釘宮先生も、よう読めなかった本、挑戦しませんか、ハハハハハ。
 「いばらに薔薇(ばら)が咲き満ちる」という、この本の題も皮肉ながら面白いですね。「いばらに薔薇(ばら)……」、読み辛いながらも、なかなか読ませる本だということでしょうか。私はまだ読んでいないのですが、一応読書台に置いておきます。お読みになって下さい。
 そう言えば、聖書そのものも、正にそのように「読み辛いながらも、なかなか読ませる本だということ」になりましょうか。
 聖書は、旧約聖書を開くと「はじめに神は天と地とを創造された」と、何だか長々と続きそうな文章で始まります。そこで今度は、新約聖書を開くと「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図……」とカタカナの名が長々と続くのです。慣れない人は、これで飽きてしまう。「もう、宗教はご免」と、言うわけ。
 よく個人伝道者が、ニコニコして親しげに寄り添って来るのとは違って、聖書そのものはどうも、ツッケンドンです。
 ところで、マタイ5章にはいると、ようやくお待ちかねの「心の貧しき者は幸いなり」と名句が出てくる、「山上の説教」です。やや、お待たせして期待のお言葉、ホッとするんですね。
 しかし、明治の文語訳聖書の時代では、一般の人には取っ付きにくい言葉だったでしょうね。私の父や母などもそうだったでしょうが、逆に言えば重々しくて有り難いお言葉に思えたかも知れません。あの明治訳の文語聖書は名訳だったと思います。《く》


【聖書講義】
死人の中より甦れ  ~一九七三・一二・二~
          
               一

 ピリピ書全巻より何ヵ処かを選んで学びます。私はピリピ書は文語訳が好きです。
 
 植物を鉱物にくらべると、際だった特長は生命現象です。動物を植物にくらべると、際だつのは運動と感覚です。人間は動物の仲間ではあるが、一般の動物と著しく異なります。どういう点かというと、それは精神現象です。人間にとり、「精神」は見捨てがたい人間の特長、または本質であります。
 それに似て、キリスト教の目をそむけることのできない、他との際だった特色、これが無ければキリスト教ではないと言えるようなもの。教会か? 否。では、なにか。それはキリストご自身であります。現在のキリスト教には、キリスト教めいたものと、キリストそのものとが混乱しています。キリスト教めいたものはどうでもよい。私は本当のキリストご自身を伝道できるようでありたいものです。
 
 まずピリピ書第一章6節を拝読します。
「我は汝らのうちに善き業を始めたまいし者の、キリスト・イエスの日までこれを全うしたもうべきことを確信す」(現代かな使い、当用漢字等に適当に訂正、以下同じ)
 
 パウロの当時の信条に従えば「キリスト・イエスの日」とはこの時代の終末、キリストの再臨の時をさします。(この頃、終末論が日本でさかんに叫ばれていますけれど、もともと終末とはキリスト用語です。)時間が過去から、現在、未来へと流れる。その果てに終末がある。その日、キリスト・イエスが再臨なさる。――― パウロも形式としてはそう信じていたでしょう。その教理が語る背後の真実は何か。
 現在ここにいる私が、終末のキリスト・イエスの日を先取りできる。意識的に、上手に誤訳しますとね、「キリスト・イエスの来たれる日のごときにまで汝を完成する」ということになります。キリスト・イエスの日とは先のことではない。今日ただ今のことです。
 
 信仰とは、私たちが何かをしたかとか、何を始めたかということではない。神が私たちの、それぞれの人間の中で何事かを始められたということだ。私どもの中における神の事業(エペソ一・11、ピリピ二・30)、――― それが信仰だ。それが私どもの中に始まる時、善き始まりは善き終り、キリストの日の完成が、早くも先取りされて、私どもの中に芽生える。それが聖化です。
 
 信仰とは、先の先のことではないのです。信仰とは現在のことです。今ここに、私の完成がある! 「まだ終末の時ではないのに、どうしてそんなことがおこりますか」とニコデモ流の間のぬけた質問を発してはいけません。キリスト・イエスの日とは今のことです。その事をなさしめるのは、我らの中に善き業をはじめたまいし方の力によります。私たちが、自分の能力で始めたのなら、私たちの能力の限界以上の業はできません。しかし、もし全能の神がなして下さるのなら、それは可能です。(ピリピ三・21)。キリスト教の信仰は、昔話でもなければ、未来話でもない。現時点のことです。現在の私にキリストの完全を先取りさせてくれる信仰でなくては話になりません。
 <つづく>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
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by hioka-wahaha | 2012-06-19 15:53 | 日岡だより
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