No.543 主のご再臨の日を期待しよう! 2012.6.3

主のご再臨の日を期待しよう!   

 主イエス様が、この地上にお出でになったことをご来臨と称します。かつて2千年前にイスラエルの地にご降臨くださったのを初臨と言い、再びこの地上にお出で下さる日のことをご再臨と申し上げる訳です。
 現代、世界中にイエス様の福音が言葉だけでは行き渡って、世界中どこででもキリスト教の教会があります。これは世界の歴史では初めてのことだと思います。
 ですからイエス様が今、この地上にお出で下さることは決して早過ぎではない、などと言うのは不敬虔でしょうから、主の御心にお委ねするほかありませんが、「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(第一コリント16:22)とお願いすることはお差し止め無いと信じるのです。
 再臨待望の声が強過ぎてキリスト教世界で煙たがられた事もありました。妙に狂気じみて行き過ぎた感じもあったのです。しかし、現代では既にその時が来ていると思います。喜びと平安を持ってご再臨を待ち望みましょう。《く》


日々新生  

一九七三年十月二十七日(土) 外出して、郷土史家のU氏に逢う(「会う」にあらず)。「仏像の写真をとるのに、拝む心でとれと若い写真家に言っているんですよ」、然り然り。
十月二十八日(日) 日曜集会は最近、十時からにしている。以前は十時半からだったが、この頃の講義はたっぷり二時間かかる、そこで十時にくりあげたのだ。集会の順序は (1)讃美歌(斉唱)、(2)聖書(輪読)、(3)祈祷(多数)、(4)講話、(5)祈祷(多数)、(6)讃美歌(斉唱)、(7)祝祷、という簡素なものである。開会時刻は若い時ほど厳守しない。若い時は秒針を見つめるようにして開会した。この頃では、私自身の内心のハズミを見計らって始める。相撲の仕切りに似ている。今月になってから、講義が大声になって、遠慮会釈なく二時間会衆に言葉をあびせかける。この形になってから、知らせたわけでもないのに、なぜか来会者少なし。しびれが入るのを千里眼で見通しているみたいである、呵々。集会の人の多少にかかわらず、ぼつぼつ後半生に入りかけている私は、毎週遺言のつもりで語っている。今日の主題は「智恵、能力、自由を得るには。(テキストはヨハネ福音書21章)」
N君にさっそく「智恵・能力」開発実験として同道をうながし、三十キロさきの山林の土地さがし。行ったら、売れた直後。「目に入ったら、すぐ動く、動けば次の状況が展開する、そのたび新しい情報がはいって、こちらは利口になっていく。動いた分だけ知らず知らず能力がふえているんだ」と教える。
十月二十九日(月) 私は、一日の〔労働と学習〕の時間数とその密度において、日本人の平均値に比べ、相当高い方だと思う。(十数年前は一日中寝てくらしたといっていい程ブラブラしていたこともある。私はどちらも好きだし、また得意だ。)そういう忙しさの中で、神秘な静けさを味わえる事はうれしい。そして、敏感な触手のように小さな情報を捉えて、アミーバーのようにすばやく身がわりできる不思議さを思う。
舟木一夫、また自殺未遂。芸能人のあわれさ、こういう華やかな人気の泡の上で溺れかけている人々に、救いの手は届かないのだな。あわれだなァと、嘆息する。芸術家、政治家、ハイソサエティの人々みな然らん。
十月三十日(火) 「勁(つよ)く、剛(たけ)く、美しく、秘めやかに生きたい」、あらあらしく頑(かたく)ななのではない、キレイごとで、コソコソ生きるのではない、神経がこまやかで、そして悲境に処して不倒の雄々しさを持つ、そういう人生を望む。
十月三十一日(水) 紙が不足するという、それを伝える新聞のその用紙の消費量は、日本の全消費量の四分の一である、チトおかしい。石油がいよいよ配給制になるという噂、その矢先に航空会社は大分という田舎空港にエア・バスをまわそうという、音と排気ガスをまきちらすジェット機のガソリン消費量を考えると、顔をさかなでされているような感じがする。
いつも言うことだが、「文明」とか、「文化」とかいうことが消費の上にあぐらをかいている中は、文明も文化もコマーシャリズムの餌食になってしまう。(入場料○千円や、ステレオやVTRの鎖にからまれているようでは、ひっきょうカラヤンは言うに足りない男だ。)消費文化を追い出さなくては、人間は真に解放されない。本当の人民の文化は生れない。それかと言って、文化省に音頭をとってもらって「文化英雄をたたえる詩」てな文化これ奴隷文化ですな。
十一月三日(土) 文化の日である。昔でいえば、明治節or天長節。この日にふさわしく快晴。妻と二人、臼杵の白馬渓にいって紅葉と水と空を愛す。
十一月四日(日) キリストの福音について語る。特に「内に充満して、私どもに勝利を得しむる福音の力」を。旧来、新来の婦人方多く、少々たどたどしい講話であったが熱演(?)した。「人生の舞台で、<ふっ切れて>演じ得る名優でありたい。」と。
十一月五日(月) 夜、読書二冊、「平松実馬とその足跡」――― その聖と愛と伝道に熱狂する人生に打たれた。司馬遼太郎「人間の集団」――― この人のユニークで自由な洞察と表現(特に用語がおもしろい)に意表をつかれて快い驚きを覚える。
十一月六日(火) 本誌第二号印刷上がり。TVで蜜蜂の「内的時計機構の解説」を見る。人間の内なる「預言」機構を想う。
十一月九日(金) 歯科に行き、口腔内の大工事。歯科に行くのは二十年ぶり。その間、歯は荒れるにまかせていた。歯科の設備の進歩しているのにおどろいた。
十一月十日(土) 結晶体はこわしてもこわしても形状が同じだ。私どもは小さな小さな神の「結晶体」である。不純物があるなら、聖霊の火で一度溶解して神の「言」で再結晶して頂くことだ。
<つづく>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
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by hioka-wahaha | 2012-06-05 17:07 | 日岡だより
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