No.541 信仰では無くて御信心 2012.5.20

信仰では無くて御信心

 日本の浄土真宗では信仰とは言わないで、信心と言っているように思う。もっと突き詰めて言えば、信徒さん方の間では「御信心」と言っているのではないか。
 信仰という言葉には、なにか当方から思い詰めて意図的に「信じ抜く」というような力学を感じるが、
 真宗信徒の方々の「御信心」という言葉からは、佛さんの方から頂いた有り難い、有り難い「信仰心」というような味わいを感じることが出来る。
 これは親鸞さん以降の浄土真宗のすぐれた言葉ではないかな、と思う。

 さてここで、この「信仰心」についての神髄を改めて私たちのキリスト教においての理解の仕方を解いてみたい。聖書を開いてみよう。
 ガラテヤ人への手紙第2章16節には、「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリストを信じる信仰によって認められる」とある。
 この「キリストを信じる信仰によって」という箇所は実は原文に忠実に訳すと「キリストが所有される信仰によって」となるのである。だから私たちが義と認められる信仰は私たちがイエス・キリストを信じる信仰ではなくて、イエス・キリスト様ご自身が持って居られるイエス・キリスト様の信仰なのです。
 イエス様が十字架にかかられ、ひとたびお死になされて陰府に下られた時、イエス様は全人類の罪を背負って地獄のどん底まで行かれ、そこから逆転、地上に帰り、天にまで向かって復活される大飛躍、それはご自身を信じるクリスチャンたち全員を引き抱えて一斉に天にまで送り届けようという信仰です。
 この確かなイエス様のご自身の信仰を私たちのものとして頂いて、あたかも私たち自身の信仰の如く確信して、義と認められ、義とされ、正に義人として天に迎えられるということ、これが私たちの救いです。《く》


石油危機について   
 
 「田中首相は、社会経済国民会議の設立総会のあいさつで石油危機問題にふれ『〝消費は美徳〟の名のもとに国民の暮らしに定着した使い捨てを見直し、資源のむだ遣いを排除し、節約型の生活に移行する』よう訴えた。田中さんがいうまでもなく国民もその必要を痛感し始めており、そのこと自体に反対はないだろう。だが、田中さんがそう訴えることに抵抗を感ずる国民も少なくはないに違いない。」
 
 これはある新聞のコラムに出ていた一節である。石油について中東依存度の高い我が国の国民生活の危険については、私は内々いつも提言しつづけてきた。二十年ほど前、世間は石油コンロ全盛、デパートにプロパンガスがはじめて出た頃からであった。
 何でも十年も二十年も早めに言い出すと、奇人か衒学派に見えるもので、かっては私もそのように見られたことと思う。
 
 石油節約運動等なにを今さらと思う。乏しくなって、困りきるようになって初めてモノを辛抱し始める――― 何という見識の無さ! 昔、仏僧が山中のせせらぎでひしゃく一杯の水も「勿体なや」と拝んで飲み、余った水をそばの草木にかけてやった。そういう心情からくる節約でなくてはいけないのだ。
 そういう精神がこの祖国におこってほしい。これは万物ひとしく我らの分身である、というような「万物同胞」の精神が根底にないと不可能のことである。
 
 それはさておき、私の「あまのじゃく」精神を発動させて言いそえると、消費の中にのみ育つ文化――― それは妖しげなカイン文化であるが――― それでも文化は文化、無きにまさる文化だ。そのような文化性はたしかに物量の豊かさの上に築かれる事実にも目を閉じることはできない。
 ただいたずらに「物質文明」を攻撃するのも(新聞投稿欄に見る限り)熊さん八さん流で、些か能の足りぬ感じがする。
 
 そういう「物質文明、軽薄なぜいたく文化」であっても、それは少なくとも一国、一民族の独立性維持というか、他国の軍事力支配に対する抵抗というか、占領軍排除能力というか、そういう「力」になることはたしかである。
 文明の低い国が、文明の高い民族を支配することはできない。もし無理じいに支配していると、いつの間にか植民地の方が本国よりもぜいたくをし、本国の優秀人間がゾクゾクと植民地に流出してしまう。
 そして本国が植民地に組み込まれてしまう。そういう事がおこるのである。
 だから舶来品でも何でもかまわぬ、国民に贅沢をさせておくと、どこの国も占領しにくいという自衛隊百万以上の防備力になるのである。言いすぎかな。(1973.11.14)
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
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by hioka-wahaha | 2012-05-22 17:31 | 日岡だより
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