No.539 病気になった時、一番に行く所は? 2012.5.6

病気になった時、一番に行く所は?   

 風邪をひいた、おなかが痛い、足に怪我をした。一番に何をしますか。お薬? お医者?
 私たちは、まず神様に行きます。祈りましょう。「神様、私を癒してください!」
 そして心の内に神様の声を聞きましょう。神様の声とは分からない方も、自分の心に聞きなさい。「どうしよう?」
 あなたの心の底から訴えるものが有ります。「大丈夫、待っていなさい。必ず、熱は引く」。あるいは「私は主であり、あなたを癒す者である」(出エジプト15:26)などと御声が聞こえるでしょう。
 そして、大安心、常備の薬箱を開けて適当な薬品を捜して飲めば良いのです。
 「なーんだ、結局、薬か」などと、がっかりするんじゃないのです。信仰と言っても非常識になることではありません。
 道を歩くにしても、御飯を食べるにしても、電話をかけるにしても、常識的な振る舞いで当然です。淡々として行動しなさい。信仰とは突飛な行為を要求するものではありません。
 「病いある者は医者を要す」とイエス様も仰せられた(マタイ9:12)。しかし医者も治せないような病気をも、いやしてくださるのがイエス様です。信仰です。
 信仰に勢いがある時には、癒しもすさまじいですね。《く》


教師のいない教育が本当の教育だ  

<前号よりつづき>
 教育技術は、「これもまたなおざりにすべきことではない」、しかし、それ以上に大切なことがある。普通言われることは、教育者の真実とか愛とか熱情とか人間味とか、そんな事だ。しかし、それ以上にもっと本当に必要な事は、
「被教育者が自ら気づいていない(ことが多い)自身の成長の方向、学習の領域を、本人にかわって予見して教育する。さらに、必要なことは、学習する内容を超え、自ら学習すべきことを自ら悟り、自らに学習を課し、そして自ら学習をする能力をもつように、導くこと。」
である。
 
 こういうことを考えると、ヤマギシズム流の研鑽方式、KJ法のような「自ら」に語らしめる方法、ソクラテス風の問答法で自分に悟らしめるやり方、―――そのような教育の型がありそうな気がする。
 
 今の教育を論じる人は、明治以来の文部省方式の学校の型になれてしまっていて、
1.教育とは学校のことである。(ほとんどそう思っている)
2.学校のことは文部省がきめる。(文部省は学校の僕ではないのか)
3.学校には校長や先生がいる。(先生の先生は子供)
4.先生には資格がいる。(資格とは国家の認定のことである。ニセ医師問題を連想させる)
5.校舎や運動場も必要。これまた、文部省の認可基準がある。(青天井の川べりでは悪いのか。公共図書館、研究室は使えないのか)
6.生徒の好きなことよりも、文部省で決められた学科を教える。(子供もえたりかしこしと文部省の気に入る答案をかくようになる)
7.学科というのは、英数国社というように分かれている。(クラブ活動のように徹底してメロメロに分かれて散って集って、「北海道まで歩く」組、「バイオリンを作る」組、「トンネルをほる」組、「幽霊探検」組、というような学級(?)編成ができないか)
 
 右のようなことを、ことあらためて問題喚起されると、肝をつぶしてしまうだろう。
 
 教育とは常に、前世代のものが、次代のものに、自分の人生観、世界観、価値観を押しつけようとしておこってきた。
 
 今、私がここに提言したい教育は、教育されるものが、自らの教育を自らに選びとる方式である。「自らに、最も正しい教育を与える」というその自己教育発見の体験を体得せしめておくことこそ本当の教育である。
 そして、人間はいかに先輩になろうと、長老になろうと、まず他人の教師であるよりは、先に、自らが弟子となる道を把握する。まず弟子であることによって、他の人を弟子たらしめることができる。これが本当の教育だと思う。
 
参考図書 
(1)林竹二「授業・人間について」
(2)斉藤喜博「開く」
(3)ヤマギシズム幸福学園「愛児に楽園を」
(4)川喜田二郎「パーティ学」「移動大学」
(5)波多野・稲垣「知的好奇心」
 
 <終わり>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
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by hioka-wahaha | 2012-05-08 11:41 | 日岡だより
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