No.536 息吹きの祈り 2012.4.15

息吹きの祈り  

 祈ろうとしても何を祈っていいか分からないことがある。祈ろうとしても、一言の声も出ない。心には張りつめた思いがあるが、言葉にならない。欝屈した思いが今にも爆発しそうだが、却って、重く沈殿して心の奥底に沈んでしまいそうである。
 たまらなくなって「神様あ……!」と叫ぶように祈ると、思わず涙が目に溢れて胸に重いものがたまってくるような気がする。前につんのめって床を叩いて「主よ……!」と叫ぶと、フトそこに神様がおられるような気がすることがある。
 神様の膝に駈けよって甘えてみたいような気がする。「神様あ……」ともだえるように語りかけると、心のうちに「何だい?」という神様のお声が聞こえるような気がする。もう一度「神様あ……」と叫ぶと、私の肩に神様が手を掛けてくださる、その重みを感じる。「どうしたの?」とお声がする。私は思わず、「苦しいんです」と申し上げる。その途端、思いかけなく私は「ワッハッハー」と笑い出すことがある。喜びの霊が私の内に殺到するのである。「主があなたの喜びとなる」(イザヤ58:14)」ということか。
 それから、思わず、異言の祈りが始まる。と言うより言葉にならないで、息だけが出て「ハーハー」と言っているような祈りだから、私はこれを息吹きの祈りと言う。
 そうして、ある思いが心に湧き起こってくる。「主と一つだ。主と一つだ。」 《く》


〔聖書講義〕
我が内なる「福音」   
 
 「恵み」とはキリストの内にある壷から砂糖でもスプーン一杯ずつわけてもらうように思っていてはいけない。一発くらって穴があくと、私の中にある全エネルギーが凡てキリストの「恵み」とかわるのです。
 
 この力で地球全壊とは行かずとも「日本列島沈没」「日本列島蒸発」「日本列島総入れ替え」ぐらいのことはやろうじゃありませんか。これが、「キリストの恵みによって強かれ」ということです。
 
 次に8節に移りましょう。
 「ダビデの子孫として生まれ(=約束の子として生まれ、或いはあたりまえの人間の子として生まれ、ということ)、死人のうちからよみがえった(=肉の人間として生まれ、十字架にかかったにしろ、何にしろ、とにかく当たり前に死んでしまったが、その中から生き返る力を得たキリストの秘密→それは医学的生理学的神秘学的復活ではなくて、つまり墓の中から息を吹き返したなどというケチくさい復活ではない。単純な復活では生きてまた死ぬ。前々のとおりオドオド、イライラ、ねじれた根性で生きるだけだ。そういう人生をけとばして永遠感覚で生きぬく、それが本当の復活だ。)イエス・キリストをいつも心にとめなさい」
 
 人間の肉体の中で精神活動は最も最高の人間らしいところ、霊に密着するところだ。霊の世界は要するに人間の知恵では掴み得ない。精神の最奥の壁に耳をあてて(のぞき窓もないので)いろんな振動を聞いてそれをいろいろ翻訳しているだけのことだ。
 その精神の部屋にいつも復活のイエスの姿を、その力を、その愛を、とどめておくことをパウロはすすめる。
 
 これは、パウロの信仰の実生活から出た奨励でしょう。パウロは実際体験としてイエス・キリストを我が精神の室に充満して居っていただくことの有利さ、実力さ、ありがたさを身にしみて知っていたに相違ない。
 ダマスコ城外の体験のごとく、キリストの痛みが我が痛みと判るように、キリストとの共同生活を知っているパウロの、あらわな信仰告白です。
 
 「これが私の福音です」―――、こんなあつかましいことをいうのはパウロだけです。神の福音、キリストの福音、ではない。私の内に活性聖霊が生きて、聖霊が活動しはじめ、目に見えぬ霊的世界に神の力が働く―――、それは心にキリストをとどめているからです。キリストの心を我が心としているからです。
 この精神(心)←→ 霊の相関作用のメカニズムにキリストの心が働きかけるのです。このキリストが「私の福音」であるとパウロは言い切るのであります。
 
 このようになってくると、私どもは大なる親分キリストという結晶体の中の、小さな一結晶体である子分という格好になってくる。「クリスト者の完全」とはよく論議される聖潔派の用語であるが、結晶体は小なりといえどもその完全度を持つものであってその用語は正しい。
 
 ただし、現実には不純物も多い。テモテ第二書(二・21)の如く、不純物を取り去る必要もある。高熱をもってドロドロに溶解して不純物を捨て、再結晶させるような聖化の道はなかろうか。こういう時、死にてよみがえるキリストの力が必要である。
 
 福音とは何か、この活性聖霊によって活かされ、息づかされる現状です。福音をコトバや信仰箇条や対象化にするのはだめです。福音は我の内のことです。「福音我が内にはじまり」そういう事がおこらぬといかんのです。
 
 ああ、すばらしい人生ですね。時には人に裏切られ、人に誤解され、損をする人生であろうとも我々は何も恐れる事はない。心を動かす事がない。辛抱できるのです。
 <つづく>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
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by hioka-wahaha | 2012-04-17 17:25 | 日岡だより
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