No.530 死を考え、生を考える 2012.3.4

死を考え、生を考える

 今週の土曜日、3月10日に「大分・生と死を考える会」の3月定例会が持たれるそうなので、私も出席したいと思っている。(会場は大分市東春日町、アイネス2階大会議室、会費・会員500円、一般800円)
 こうした趣旨の会は大抵「生と死を考える会」と名称が打たれている。小さいことに気がつく方は、私はこうした場合、必ず「死を考え、生を考える」というように、死を先に持ってきて、生を後に持ってくることを知っておられるであろう。私はこの辺に非常にこだわるのである。
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 私が19歳の時であった。親友・荒巻保行が死んだ。自殺である。彼も19歳だった。その前日、彼は私に言った。
「釘宮、僕は死の哲学を書こうと思う」
「バカ言うな。君が本当に死の哲学をきわめたらやな、君はそんな哲学なんか書くひまなんかないよ、その場で死んでしまう筈だよ」
 と僕は言った。この会話をしたのは、別府に彼の父が彼の療養のために造ってやった別荘だったのだが、その別荘の玄関で別れる時だった。その翌日だったか、2日後だったか。彼の父親から電話があった。
「釘宮君、保行が死んだ。自殺なんだよ」
 と泣き声だった。私は驚いて、別府の彼の別荘の家まで行った。既に息絶えている彼の姿に呆然とした。泣く涙も出なかった。私は気を失ったように、大分の私の家に帰って来た。そして居たたまらず、大分川のほとりに出て行って、
 「荒巻よ、荒巻よ、お前どこに行ったんだ」と泣くばかりだった。
 河口に近い、その辺りではしきりに、かもめが飛んでいたが、その印象がいつまでも私の心に残った。
 そして、夜になり、遅くなって、家に帰ると、死んだはずの荒巻から郵便が届いていた、開くと彼の小さな手帳が出た。彼の日記だった。彼の死ぬまでの書き残した日々のメモである。私は食い着くつくようにして読み始めた。以下のような文章だった。
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 人間というものは、生きている間、心に思うことは自己愛から出る思いばかり、多少は親を想い、友を想い、純粋だとは思うけれど、所詮は自己中心、そして自分を嘆き、自分を痛みつつ、解決が無い。
 所詮、こんな愚かな、自分だけを可愛いがって、他への思いやり、愛の心なんかありゃしない、醜い自分、このような自分は死ぬ外ないなあ。そういう思いで一杯になった。
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 実は、その手帳は、後日、彼の従弟なる青年がやってきて、「保行さんの手帳をちょっと貸して下さい」と言って私から持ち去ったまま、返してくれなくて私の手元から無くなってしまっているのであるが、
 私の母などは、この荒巻君の手帳を読んで「荒巻さんて、本当に純粋ねえ。あんたは、荒巻さんにイエス様のことを、もっともっと話して上げなくちゃいけなかったのよね」と私に言ったものだ。私は泣き伏してしまった。
 本当に、このような深い罪意識にさいなまれる彼のためにはイエス様の福音が一番の救いなのだとは、私も理屈では思ったけれど、私にはまだ信仰のことなど少しも分かっていなかった時だ。そして又、彼の罪意識がこんなに深刻なものなのだったとは、尚更思いもよらなかったのである。
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 この荒巻君の死は私に大きな影響を与えた。荒巻はこのままでは地獄行きではないか。こんなに純粋に罪に苦しむ魂を、キリスト教の教義では言うなら「自殺は神の前に最大の罪である」と言うかも知れない。しかし、この荒巻の魂を地獄にやってたまるか、という私の心に悶えがあった。
 しかし、私には、まだイエス様を信じる信仰なんかありはしない。母親にくっついて教会の礼拝には出席するけれども、信仰ということなど些かも判らない。私の心に途端に、「私は神様の前には罪人だ」という自覚が湧いた。だから、私自身も死んだらやはり地獄しかないのだ、ということが私の思いに突き刺さった。
 私は死んだ荒巻君の魂を追って、地獄にまで追いすがって行きたかった。しかし、私の魂は地獄に行けば、そのまま地獄の底に落ち込むだけのこと、彼を救う事は出来ない。私は地獄に打ち勝つキリストの生命に満たされる必要がある、その事が分かった。
 こうして、私は父と母、彼らの信仰を想起したのである。父や母の信仰は、ただ日曜日には教会にお参りしています、というだけの信仰ではなかった。私の父や母の信仰は、確実にイエス様を信じて、そこで、死ねば必ず天国に行けるという信仰なのだ。
 この信仰を私は「キリスト体験」と呼びたいと思う。イエス・キリスト様が私の罪の罰を背負って死んで下さった。故に私の罪は消え、私はイエス様と一つになって死の関門をくぐる。地獄は私には関係無い。私はイエス様にくっついて天国の門の方へと進む事が出来る。サタンが幾ら私を地獄へ連れて行こうとしても、それは不可能である。私はイエス様の蔭に覆われて天国への門をくぐるのである。《く》
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by hioka-wahaha | 2012-03-06 21:50 | 日岡だより
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