No.527 主の御名は堅固なやぐら 2012.2.12

主の御名は堅固なやぐら

 「太郎君!」と呼びますと、「ハイ」と返事をして、太郎君が来てくれますが、それと同じようにイエス様をお呼びする時にも、この法則です。
 「イエス様!」と、お呼びしてみましょう。その時、「ハイ」とお返事は聞こえなくても、イエス様は真実な方ですから、直ぐに来てくださいます。
 これが祈りのコツです。「イエス様!、イエス様!、イエス様!、イエス様!」と何度でもお呼びして下さい。そのうちに次第にイエス様の御臨在があなたの心にもハッリしてくるでしょう。
 私はB5の西洋紙に「イエス様、イエス様、イエス様、イエス様、イエス様、イエス様」と一杯書き込んだ用紙を持っていますが、それを昔の校長先生が教育勅語を読んだように声を張り上げて朗誦するんです。初めは形式的でなじめませんが、しばらくすると感情が乗り移って来ます。そして次第にイエス様の臨在を感じながら、「イエス様、イエス様、イエス様、イエス様」と涙ながらに。お呼びするのです。少々形式的自己観念操作みたいで恐縮ですが、真剣にやれば神様に叱られることは無いと思います。
 ちょっと具体的なことに触れますが、私の場合、やはり祈りは朝早い時が良いようです。私は大抵、早朝と言っても午前4時から6時の間ですが、起床して教会の礼拝室にこもります。どうかすると9時頃まで祈りを止められず、なかなか家に帰ってこないので朝食の用意をしている家人を困らせることもあります。
 もう一つの祈りのコツですが、祈りは絶えず日常生活のなかで祈ることができます。この習慣がつくと祈りはいつでも出来るということです。私はこの習慣は随分若い時、そうですね。聾学校の教員をしていた時ですから、20歳代です。その頃、既に聾学校は大分市大道町に来ていまして、私は春日町に住んでいましたが、歩いて小1時間ほどかかる道のりでした。毎朝祈りつつ学校に通うのは実に幸いでした。
 この習慣はついに何をしている時にも祈りを並行させる心の技術を身につけさせてくれました。遂には、学校に着いても朝の職員会議から聾児たちを相手に営む体の動きの多い授業ですが、その中でも祈りを続行するような意外なことも出来るようになりました。(これが「絶えず祈る」ということの秘訣です。何をしている時でも祈っておれるのです。だから理想的にいうと、四六時中常に祈っていることは可能なわけですね。
 さて、こういう事はご婦人方だったら、お炊事や洗濯、お掃除をしながらでも、家族や教会のため祈りを続けることが出来ることを体験なさっているでしょう。
 同様に、実は私などが原稿をワープロで打っているような時でも、主に向かって祈りを捧げているようなことも出来るのですね。そうかと言って、普段、それほど清められた日常生活をしている訳でもありませんので、ご了承下さい、呵々。
 最後に、聖書の御言葉を。「主の御名は堅固なやぐら、義人はその中に走りこんで救われる」(箴言18:10)《く》
 

〔聖書講義〕
我が内なる「福音」 (1973.11.11)                     

   〔参照〕 (1)聖書 テモテへの第二の手紙第二章(全)
         (2)讃美歌二六〇番(ちとせの岩よ)
 
  讃美歌二六〇番はトプラディの有名な名篇であります。私は特に第一節が好きです。
 「千歳の岩よ わが身をかこめ
  さかれし脇の 血しおと水に
  罪もけがれも 洗いきよめよ」
 
 パウロはキリストを信仰のいかりをおろすべき、又信仰の基礎をすえるべき「岩」として例えたことがあります。イエス御自身は又、山上の垂訓のあとで、これらの教えを聞いて行うものを「岩」の上に家を建てた人になぞらえたりしました。
 それはイエスの教えを聞いて、すぐ実行をする人を賞讃したのだというよりは、キリストという「岩」の上に信仰のいかりをおろさぬ限り、山上の垂訓のような尊く高度な倫理をいくら耳にしても、実際に行うことは不可能なのだということのように私には聞こえるのです。
 
 「山上の垂訓」のようなみごとな教えを聞いて、すぐ立っていってそのまま実行しようとしても(又、実行したとしても)、私たちの行動は砂の上に立てた家のごとく、人の嫉妬心や批判や自らの不安の洪水におそわれ一夜に流されてしまいます。もし基礎がしっかりしているならば、毎日毎日少しずつのレンガ積みや柱やかべの造作でも、いつかは家も建ちます。
 
 私どもの人生は「小さな善行」の積み重ねで立派な生涯と化すことができますが、それにはその積み重ねが徒労に終わらず、日毎の労働が風にも雨にも倒されず又流されぬという堅固な生涯建築でなくてはなりません。それには雨にも風にもこわされぬ永遠の基礎が必要です。
 その時こそ内村先生のいう「勇ましく高尚な生涯」―――後世への最大の記念碑が可能です。そういう人生の大基礎こそキリストであります。その基礎に立つ人こそ、まことの神の子であり死を蹴やぶって永遠の世界に突入する底の人であります。<つづく >
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-02-14 14:30 | 日岡だより
<< No.528 永井先生、茨木伝... No.526 イエス・キリスト... >>