No.523 魂の回心を求めよ 2012.1.15

魂の回心を求めよ   

 回心という言葉はキリスト教用語として大切な言葉です。泥棒をしていた男が心を改めて「もう泥棒を止めます」と決心した、これは改心と言います。これを回心と誤解する人もいますが、それは誤りです。現行の日本語訳の聖書では、「悔い改め」という言葉を使っていますので、誤解を受けやすいのですが。
 回心という言葉は、キリスト教においては原語でメタノイアです。魂がクルリと回転することです。この世の事ばかりに気をかけていた魂が神様の方に向きを変えることです。これは殆ど自力では無理です。神様のほうから力が働いて思わず人の心が神様の方に向きを変えるのです。そうして神様のほうから聖霊の力が差し込んでくるのです。その時、思わず人の心は神様の言葉を受け入れます。ハッと気づくのです。そうして人の心は神様の霊の言葉に耳を開きます。
 悔い改めるという言葉は、何かくよくよ悔やんで泣きべそかいてへこたれる感じですが、聖書では心を表を裏にひるがえして、回転させることです。そうして神様から逃げ廻っていた心を神様の方に方向転換、神様の前に帰って行く、それが悔い改めということです。そうして人の心には喜びが湧き、希望が燃え上がり、力が増してくるのです。
 これまで幾ら努力しても解決できなかった人生の問題をぶち壊し、新しい目的を見出だし、計画を練り直し、聖霊さまの力を借りて、勇気を己がものとし、全力を挙げて敵に突貫するのです。これらの中で最も大事なものは勇気です。事を起すのも、事をやり遂げるのも勇気、そして最後の勝利を掴むのも勇気です。
 これには矢張り、心が神様に向かって忠誠心一杯、己れを捨てて、敵に対しては勇気百倍、恐れを知らぬことです。敵とは何か、悪魔です。悪魔は我々に弱気を与え、困難に遭えば退却を一途に勧めます。勝利させません。こういう時、必要なことは、悪魔を追い払う一喝の言葉です。言葉には力があります。
 多くの人の失敗は、いざと言う時、この悪魔に対する一喝の声が出ないことです。
 イエス様に向かって恐喝の弁を吐くような強気のサタンに対して、イエス様は更に強気です。ここでイエス様の一喝、「サタンよ、退け」(マタイ4:10)。サタンはイエス様の一言のもとに逃げ去ってしまいました。
 人生における勝利の秘訣は「勇気」です。万事勇気が必要。恋人に声をかけるにも、社長さんに意見を具申するにも、病人の患部に向かって「病気の霊よ、出て行け」と言うのにも、勇気が必要です。
 案外、多くの人が気がつかないのが、祈る時に勇気が必要だということです。この点は詳しくは申しませんが、大抵の人は神様に祈るとき弱気です。こんな大胆な祈りをして、もしかなえられたら、どうしよう。私には到底、その始末はできません、などと心に恐れているのです。
 そこで、勇気です。この勇気を与えてくれるものは、冒頭に書いた回心です。神様に向かって魂が回心、つまり徹底して従順になって居るのです。神様に従順な魂は勇気を持っています。何ものにも負けない勇気です、
 祈りを始める、最初の一語、「神様!」と申し上げる時、素直で、へりくだった魂も必要でしょうが、それ以上に「神様から何を要求されようと私は従います。引き受けます。何事でも、どんな困難なことで致します」と、覚悟して祈り始める時、それは一種の勇気です。勇気有る祈りを忘れないように、諸君、お覚悟召されよ、ハハハハハハハハ。《く》


小生、九十歳になっちゃったです   

 私は1922年1月14日生まれ。昨日90歳になった訳です。
 生まれた時、産科医言わく、「このお子さん、20日と生きておられないでしょう。いろんな条件が悪いんです」。
 父はそれを聞くと、産褥にある母にもそれを言い、彼は家に帰って、泣きました。
 「ああ、主よ、あなたは私に一人の男児を与え給い、しかして又急にこれを取り給うか。主権者である主よ、私は従順に服従します。すべてを御手にゆだね奉ります。アブラハムがイサクを燔祭に捧げたる如き試練を私どもに与え給うか。ラザロを甦らせ給いし主よ、私ども夫婦にマルタ、マリヤの如き厚き信仰は無くとも、一度与え給いし幼児を願わくば取り去り給うなかれ。主と、御心にかなわぬかも知れませんが、出来得るならば、僕よりこの苦き杯を取り去り給え。この幼児をこの世より取り給う事が御心であるならば、その真理のある処を私どもに悟らしめ給い、我らの涙を拭い給え。されど、主よ。御心をなし給え。アーメン。」と祈ったと父の文集に残って居ます。
 尚、生まれたその日も、翌日も次の日も、来る日も、毎日毎夜「ラザロを甦らせ給いし主よ」と祈り続け、同信の方々にもご加祷を願い、多くの方々から熱誠なる同情と慰問の電報、手紙を頂いたとも記事が残されています。
 そして1週間たって、その病が快復の曙光を得たとの医師の報告に喜び、神様に感謝申し上げた旨の記録を残しています。その赤子だった小生は、今90歳。感謝ですが、この父は釘宮太重(たじゅう)と言い、なんと45歳で召されたのです。嗚呼! 《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-01-17 00:18 | 日岡だより
<< No.524 信仰をしっかり学... No.522 相良佐枝子姉を天... >>