No.518 毎日がクリスマス? 2011.12.11

毎日がクリスマス?   

 クリスマスが近づきました。毎年、いつもこの頃になると、クリスマス近しという言葉を口ずさみます。そして「実は日々クリスマスを体験することこそクリスチャンなんだ」というせりふが私の脳裏を走るのです。これは毎年のことです。
 クリスマスという言葉は、キリスト祭と訳しても良い言葉なのだと聞いたことがあります。
 クリスチャンとは何か。クリスチャンとは日々その心に働くイエス様を体験し、そのイエス様内在の感謝と喜びに溢れて、その内なるイエス様を日々に、その唇に告白せずにはおれない者たちなんだと、私は定義するんです。
 極端に言い替えると、クリスマスとは年末の12月25日の日だけではない、イエス様は1年365日、毎日、毎日クリスチャンの心に来臨して下さる。だからクリスマスはクリスチャンにとり毎日のことである。だからクリスマスの喜びは毎日クリスチャンの心を襲うのである。イエス様のクリスマスをクリスチャンは毎日告白出来る筈ではないか。これが私の心に於ける、叫びです。《く》


私の宗教問題    

       四

<日岡だよりNo.517よりつづき> 
 自分の神だけを本当の神と思い、他の民の神をハナであしらう態度ほどきらいなものはない。私は、宣教師が日本の仏教や神道を軽くあしらう時、満身の怒りを覚えざるを得ない。
 ブレイナードのアメリカンインディアン伝道の本ほど霊的ないい本はないが、ただ一つ「あわれなあわれな異教徒インディアン」と言う時、私は本当にイヤになってしまう。
 全世界、キリスト教の宣教師の行く処、その地の土着宗教はあとかたもなくなってしまう。そんな事でいいのだろうか。熱心な熱心な宣教師の手により、改宗者がドンドン造られていく時、イエスはそれを「ゲヘナの子」と眉をしかめているかもしれぬ。
 
 ここに宮崎亮医師の手によるアフリカ医療伝道の一記録がある。
         ***
 今日は孤児収容所を訪れました。・・・ここの収容所には四十人もの孤児を収容しておりますが、この施設は政府がつくったのでもなく、団体の寄付金でできたのでもなく、自分たちの力で、村民たちが協力し合って作りあげたものだそうです。
 この村は、原生林の中のいわば「奥座敷」にあります。お年寄りのヨボヨボした酋長さんがニコヤカな微笑をたたえておいでになりました。酋長さんは静かにささやくような声で、こんなことを語ってくれました。
 「こんな田舎の田舎にまで日本からおいでいただいてお礼の言葉もありません。わたしたちの国は貧しい国です。コレラや腸チフスや、その他の伝染病がはやっています。教育もない人が多く、お金も食べるものも住むところもない人がたくさんおります。薬もありません。『お腹が痛い』『頭が痛い』『熱がある』といっても子供たちにあげる薬がないのです。・・・子供たちが病気になって苦しんでも。死にそうになっても、なすすべがありません。土間の上で淋しく死んでいきます。ただ一つ、こんな貧しい中にもわたしたちが、しっかり握っているものがあります。それは私たちが、私たちなりに信じている神様の愛と隣り人への愛です。私たちの持っている何ものかを外国人であるドクターにも理解していただきたいと思います。」
 こう語る酋長さんの眼の中に美しく光るものがありました。それは、金よりも、銀よりも、ダイヤモンドよりも美しく輝いておりました。
 この酋長さんは、キリスト者ではありませんでした。仏教徒でもありませんでした。しかし、本当のキリスト者とは、こんな人ではないかと思いました。本当の仏の慈悲を知る人とは、こんな人ではないかと思いました。
         
 後進国の伝道に行って、こういう事を言える人をうみ出した日本を私は誇りたいと思う。ここにシュバイツァーをこえる思想がある。キリスト教を脱して、宇宙のキリストに接点をもつ思想の円環がある。
 
       五

 世界の改造はカンタンではない。
 
 株式会社や、土地所有や、組織圧力や、権力欲や、それが個人個人よりも無くならぬ限り、世界は悲鳴をあげて亡んでいくであろう。
 
 「キリスト教」という名を惜んで、真理を独占したような気分になっている時ではない。
 (一九七三・一〇・一八)
 <「私の宗教問題」の項終わり>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-12-13 16:28 | 日岡だより
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