No.517 大東亜戦争から70年 2011.12.4

大東亜戦争から70年   

 今日は12月4日。大東亜戦争勃発の12月8日がすぐそこだ。標題に書いた通り、今年はあの大東亜戦争から70年である。言わば、大東亜戦争70年記念日ではないか。大々的にこの日を祝おうとする右翼の人たちも居るに相違ないと思う。
 多くの人は考えないし、知ろうともしないが、日本が起こした大東亜戦争の意義はもっと充分に考えるべきことである。
 第一、大東亜という視野である。この広い視野は、日本人のみか、中国人やインド人の心ある人々の充分に考え抜いた視野ではなかったかと思う。あるいはロシアの人々も、どうであっただろう。
 ところで我々に欠けていたのは、日本の背後にある太平洋である。これが当時の政治家、特に軍部である。軍部の人々は太平洋のことは忘れてはいなかっただろうが、うっかり戦略思考から抜けていたに違いない。これは「うっかり」とは言っておれない当時の国策を扱った政府、軍人がたの大失態である。
 ところがこの太平洋をたんたんと狙っていたのが、なんとアメリカであると言うべきか。いや、アメリカの領土としては既に、ハワイがあったし、また領有地に等しいフィリピンが日本の領土、台湾の近くにあった。だからアメリカは太平洋を遥かに越えて、かなたの東アジアに向かって国策的視野が届くのは当然のことなのである。
 この事にうっかりして気がつかない。単なるアメリカ蔑視主観、おカネに驕り昂ぶっているアメリカ相手には一戦ぶったら一返に勝ってやるぞ、なんて気軽な対米意識が日本にはあったように思う。少なくとも当時の平均的日本人の意識だ。
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 ああ、あの頃から、もう70年経っている。世の中はグローバルになった。情報が地球表面を駈け廻っている。かつての日本は勿論、アメリカでさえも今思えば視野が狭すぎる。昨今は近所の老人夫婦が世界旅行に旅立つような時代である。聖書が告げる世界の終末時が意外にも平穏裡にやって来そうな誤解も起こる。そういう時代が今である。《く》
 

私の宗教問題      

       三

<日岡だよりNo.516よりつづき> 
 釈尊は「我は法を説くものにして、法にあらず」と言ったとも聞いているが、彼の説いた処は、何といっても「成仏」の秘儀であろう。空海の言う「即身成仏」、道元の言う「現成公案」、そこで証しされている「仏」は、キリストと同一者と思われるが、惜しむらくは、人格性を欠いで汎神論的非人格神、自然神、法則神の相にのみ見える。
 誤解なきようにねがいたいが、私は叙上のような汎神論的神相をダメだと言っているのではない。そういう相を兼ね持った上で、総体的唯一の人格神としての神をキリストは表現していると思う。少なくとも、私の信じるキリストは。
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 人間の脳髄は、ずいぶんと物を考えたり記憶したり感情を発したりする。これすべて人間を組成している物質の為す処であるとすると、少なくともこの地球の物質には、物を考えたり記憶したり感情を発したりする潜在力があるという事になる。
 少なくとも我々の知れる限りで、鉱物→植物→動物→人間→と、こう考えてみると、人間ほど進んだ存在はないようであるが、他の宇宙に行けばもっと進んだ生物もいるかもしれない。
 ともかく分ることは、物質はこのように組み合わされ、うまく進歩すると、とんでもない知性をうむ、人格をうむ、ということは、実はこの大宇宙そのものに、知性、人格の種がかくされているということではないか。人間がこうして知性や人格を持っているということは、この宇宙(の一部の物質)が知性や人格を持っているという恐るべきことであるのだ。
 その時、この知性、人格の進化のかなたに目をとめ、その進化をうみだす全宇宙のレアリティを神を呼ぶのなら、それは人格(我々の人格と知れる凡ての人格性をこえる超人格、つまり神格)を持つものでなくてはならない。と私は思うのだ。
       四
 内村鑑三か、藤井武が「私がいくらクリスチャンであろうとも、日蓮や親鸞のいない天国に行こうとは思わん」というようなことを言って、一種のキリスト教的ナショナリズムを発揮したことがある。
 内村や藤井の無教会主義をけむたく思っても、その純な福音性を疑う人はそう多くあるまい。その稀有に純粋な福音の徒であった内村や藤井が、こういう言葉を吐く処に、日本の霊的風土の深みと異様さがある。
 これも、イザヤ・ペンダサンに言わすれば「日本教」だろうか。「ある牧師が聖書の行間をよめ、言外の言をよめと言った」と言ってペンダサン氏が呆れているが、それが分らぬペンダサン氏の方に私どもは呆れる。私どもかくなれば矢張り「日本教徒」か。
 
 エホバの神という言い方は、私はきらいだ。私はほとんどこの神名を使ったことはない。エホバの神名(ヤーヴェであろうとヤハウェであろうと)は、新約聖書には出てこない。イエスは神を「アバ、父」と呼んだ。パウロも言う。「聖霊によらざれば『アバ父』と呼ぶことあたわず」と。私どもにとって、神は「我らの父なる神」であって、エホバではない。(私はそれかといって、無邪気に疑わず信じて敬虔にエホバの御名を呼んでいる人を批難する気は少しもない。それはそれでいいのだが、一度このことに気がつくと無邪気にエホバと呼べなくなるのである。エホバの神名をみだりに使う信仰はとかく独善排他攻撃律法型の宗教になっているような気がする。)
 <つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-12-06 11:53 | 日岡だより
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