No.516 恵まれた一週間 2011.11.27

恵まれた一週間   

 先週の11月17日から24日まで永井明先生がおいで下さった。一週間を一日越える御滞在であったけれども、その間、諸集会や、また私をお連れ下さっての諸所訪問で良き恵まれた時を過ごさせて頂いた。
 特に11月20日の主日礼拝では、エペソ人への手紙第2章8~10節を通して、「神の作品」と題して諄々とメッセージを語って下さった。それは「神の作品」として造られた、私たち人間の尊い存在意義について、またその恩寵に対する私たちの感謝と奉恩のための義務についてであった。
 ただ、神様からの恩寵を楽しく嬉しく受け取って、神の御恵みを受け取りっ放しになりやすい私たちの愚かさ、怠惰さを、戒めて下さったのであった。
 私はその先生のメッセージを伺いながら、先生が多年の間、開拓伝道から開拓伝道へ、弟子を育て、教会を各地に起こして来て来られた歴史を偲びつつ、まったくこうした面では全く怠惰な己が身を顧みながら、先生への憧憬の念を深めたのであった。
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 この度は、先生はいつもよりは日程を緩やかに取ってくださり、私もあちこち同行させて貰って豊かな楽しい時を過ごしたことです。
 特に滞在中に、先生のお誕生日11月23日を迎えることとなり、「私の霊的誕生日なんです。嬉しいなあ。」と叫びました。
 11月23日は私が昭和19年、福岡の刑務所の独房で回心した記念日です。先生と誕生日を一緒にして頂いて、うれしいことです。また、
 先生とご一緒に、別府霊園にあるこの教会の共同墓地に行き、在天の兄姉らと共に、神様に感謝の祈りを献げることが出来たのは予定を全然していなかった望外のことで、美しい別府郊外の山麓で先生共々、遥か別府湾を望み見つつ祈りの時を得て、まことに素晴らしいことでした。限りない感謝でした。
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 先生は当教会に御滞在中は、食事は全部ご自身で作られ、何事もキチンと整理整頓、こうしたことに無頓着な私は、拝見していてきまりが悪くて仕方がない。しかし、よいご教訓を頂いて尊く思っています。
 当教会はご存じのように礼拝室のすぐ隣りに寝室と炊事室がくっついている。几帳面な永井先生は無意識にも炊事に体が動かれるのであろうとは推察出来ます。先生、尊いお体でお掃除、お布団の整理等、むさ苦しい所をきれいサッパリにして下さいました、御礼申し上げます。
 その翌日、木曜日の祈祷会に出席して頂いて、メッセージを頂戴し、この集会が終わったら、先生は急遽、北海道へ旅立つために二日市のほうに帰って行かれた。私は気がぬけたように先生をお送りしたものです。先生、有り難うございました。ハレルヤ! 《く》
 

私の宗教問題    

       二

<日岡だよりNo.515よりつづき> 
 人に保証を求めはじめると信仰が堕落しはじめます。パウロのガラテヤ書の第一章を見なさい。あの頃のパウロは見事ですね。エルサレムの神殿に詣でるなんて、あれは大いに失敗です。神の子を思わず、人のことを思っています。
 
 そういう「人の前によかれ」という思いが初代教会には巣食っているように思います。その辺の処は、初代教会をはなれて本当にイエスに帰るべきである。イエスには、そういう「助平根性」は金輪際無い。
 
 初代教会には、迫害され、踏まれ殺され足げにされ、それでも人の前によかれかし、ローマ人の前にいい面をしようと図って、しだいに宮廷より民衆に至るまで徐々に浸透して、遂に三百年の後、公認の国教となった。その時よりキリスト教の世俗主義は目に見えてはびこり、その独善性排他主義律法主義が、ヨーロッパ人の論理好き法制好み野獣性とからみ合って、私の大嫌いな大嫌いな血の匂いの濃ゆいキリスト教を作り上げたのだ。
 
 以上、少々言いすぎかな。地中海世界にとって、イエスの言葉は超世界的で、まるで駄法螺のように思えたろう。その類比で見れば、以上の私の言葉は無茶でも何でもない。当たり前のことを言っているのだ。
 諸君! 共に真実を求めよう。
 
       三
 私にとって、内在のキリスト、遍在のキリスト、充満のキリスト、万物を串ざしにする通貫のキリスト、万物にコミュニケーションをわたす支配のキリスト、すべて同一のお方をさす。
 
 私が東洋の宗教家と大いに違う点は、この宇宙の真実キリストを、単なる真理・道・生命・原理・本質・原因・法則として捉えず、それ以上に「人格」として拝する点にある。
 だから私は、これよりキリストを宇宙の真実者と呼ぼう。彼は唯一である。宇宙(もちろん天文学的宇宙をこえた全体的存在をさす)と一つであるから。前章に述べた「私とキリストが一枚である」ように、キリストはまた、この宇宙と「一枚」なのである。私はこの宇宙の一部分・一細胞であるから、私の内にも「宇宙と一つなるキリスト」が一つとなって充満する。
 太平洋の水をコップ一杯にくんでも、それは太平洋の水であるように、また生物の細胞はそれぞれ全体の生命表現であるように、私の内にあるキリストは全きキリストであって、たった一つ、「独り子」の神である。イエスにあらわれたキリストが「独り子」の神であるから、釈尊にあらわれた「神性」は独り子以外の偽ものだというのは、ローマ的算数概念であって、「全即一」の宇宙的思想で考えればすぐ解ける謎である。<つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-11-29 14:53 | 日岡だより
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