No.515 日本という国 2011.11.20

日本という国   

 内村鑑三先生は、臨終を前にして「人類の幸福と、日本国の隆盛と、宇宙の完成を祈る」と祈られたそうだ。
 内村先生が如何にこの国、日本を愛したかということは一部の人には良く知られていると思う。「一部の人に」と書いて「多くの人に」と書かなかったのは、既に無教会主義の内村先生は知っている人は多くても日本国を愛した内村先生については、それほど多くは無いと思うからだ。
 当時、日本の多くの愛国主義者たち、たいてい「日本はアジアの盟主」などと言っても、「日本国の隆盛」とは言えないし、また特にこの「宇宙の完成」などとは誰が言い得ようか。無理をして「人類の幸福」とまでは言ってみても、「宇宙の完成」などは誰が言い得よう。これは内村先生の大文句である。この思想の壮大さを見よ。
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 内村先生は日本のキリスト教世界に大きなものを残してくれた。その恩恵はどれほど賛嘆しても過ぎることはないと思うけれど、ただ一つ苦言を呈したいのは、その先生の生涯の代表主筆雑誌「聖書の研究」というそのタイトルである。
 聖書は研究すれば分かるというものではない。尤も、先生がアメリカで聖書を学んだ時は、英語でバイブル・スタディでもあっただろうか。だから訳せば「聖書の研究」で悪くはない。しかし、欧米から学問がはいって、日本における研究とは極端に言えば、理学研究室にはいってフラスコや試験管を使って何かを実験しているような印象を与えたとしても無理もないであろう。
 そういうタイプの研究態度で聖書を研究する。そんな感覚を内村先生の聖書の研究という言葉が、ある種の誤解を与えたとしても当然であろう。
 聖書は研究すれば、キリスト教は分かるのでしょうか。もっと言い直せは、聖書は研究すれば、私の言う「キリストの福音」の神髄は分かるものでしょうか。
 私ははっきり答えます。「いいえ!」
 聖書を研究すれば信仰というものが分かったような気はしましょう。しかし、その信仰の本質は掴めないことが多いのです。
 聖書は読んで読んで、その御言の中にもぐりこんで、聖書の神髄を頂戴し、それを腹の底まで飲み込んでしまうまで、読んでみると、やっと少しずつ分かるようになります。
 本当によく分かるのは、聖霊の助けによってでです。聖霊の別名を助け主とお呼びするのも尤もなことです。聖霊は神様が人間に働きかけて真理(救)の理解を助けて下さる為の、神様の御手の尊称です。この御手の御助けにより信仰の秘密が人の心にも分からせて下さるのです。この御助けが無ければ、人には信仰の秘義が皆目分かりません。
 聖書の中心霊性が、あなたの肚の髄まで染み込んでしまい、その聖霊の息づかいが、あなたの全心全霊に、骨の髄まで行き渡り、その語る一語、一語、音韻の一つ一つまでが、のめりこんで来るような、聖書の読み方が出来るようになるまで、聖書を身読、心読、信読、神読しましょうね。
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 ともかく、内村先生は日本国と言って、単に日本と呼び捨てしなかった。この事の重大さに気づいてほしいのです。ここに内村先生の愛国心があります、これは使徒パウロ先生にも無いものです。これは充分に研究する余地があります。
 ローマ人への手紙、特に9章などを読んで下さい(ローマ9:1~5)。ここではイスラエル民族は出てきますが、イスラエル国家は出てきません。当時はすでにイスラエル国家は滅んで、イスラエル民族だけが残っていたからです。そしてパウロはけっしてイスラエル国家の再興を望んでいないようなのが、なんとも淋しい。
 日本は建国以来、戦争に負けたことはありませんでしたが、しかし1945年(昭和20年)8月15日、日本は初めて外国に負けたのです。これは日本精神がアメリカ人の魂に負けたというより、原子爆弾には、さすがに日本精神もひけをとったということで、日本の天皇様も初めて自国の敗戦を認め、マッカーサーにそれでも頭は下げなかったのはさすが、しかしニコニコして連合軍最高司令官に握手の手を差し伸べたたのでした。でもこれは、日本国建国以来の最大の恥辱でしたね。このことをはっきり、どの人も、どの新聞も語りません。当時の日本人はこのことを身に沁みては覚えて居ないようですね、残念! 《く》   
 


私の宗教問題    

     二

<日岡だよりNo.514よりつづき> 
 キリストが私の内に生きていますという時、キリストが小さくなって、私の内に生きているのではない。キリストは私の内にみなぎり溢れ、充満してはち切れんばかりにして生きているのだ。私の肉体の細胞―――原子すべてにエネルギーが E=MC2 にみちているように、キリストの真実は私の内に充満したもう。よいですか。この私の肉と、キリストとは別々じゃないのですよ。紙の裏と表のように一万円札の紙と表の一万円という印刷のように一体なんです、一枚なんです、キリストは私の「肉や血や精神」と別のものと思うと誤りです(ジカに一つと思うのも身の程しらずですが。)
 これが、キリスト我が内に生きていますという秘密です。これを表面言語だけで覚えてもだめですよ。内的天国言語で体得するのです。自分でつかんだら、誰にきかなくても自分で分ります。師匠に印可を求める必要はありません。聖霊自ら、あなた方に「保証」します。聖霊は「保証する霊」です。
<つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-11-22 15:10 | 日岡だより
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