No.510 「救われている」という実感! 2011.10.16

「救われている」という実感!   
 
 また、キリスト新聞の記事をお借りするが、最近の同紙のQ&A欄で「救われているという実感がありません」という読者からの質問がありました。これは率直で、良い質問です。よく、こういう質問を同紙が捉えて下さったと感謝する。これは、多分どこの教会でも信徒諸君の間で(つまり求道者のレベルではなく)、信徒の皆さんの間で潜在(!)する究極的質問ではなかろうか、と思うのです。わが教会での真相はどうでしょう。
 「潜在(!)する究極的質問」というのは、多分こういう質問は、教会の中では公(おおや)けにされにくい問題だからです。
 しかし、これは救の確かさについて、各教会における牧師と信徒間の共通認識でなくてはなりません。
 あなたの教会に「あなたは救われていますか」という問に対して、「はい、私は救われています」とはっきり答えられる信徒メンバーが何人いますか。
 また、この答えを大胆に発言したにしても、その本心は正にその通りの信仰であったかどうかは、疑問の余地がある場合もあります。牧師に指導されたままに大胆そうに答えたに過ぎないこともあります。
 なんでも疑ってみようと、こだわっているのではありませんが、正直に「はい、私は救われています」と答え得るクリスチャンを見ることができる時、それはなんという幸いなことでしょう。
 しかし又、そのようにある人が「はい、私は救われています」と答えてくれたとしても、正にその人が主の御十字架の御救いに預かっていますかどうか、その保証はでません。その保証は当人の霊性と、神様の側にのみあります。
 教会で、牧師が按手してくれて、「はい、あなたは救われました」と宣言してくれたとしても、そこに救の確かさは保証されますか。はい、牧師が如何にいい加減な人であったとしても大丈夫です。その按手を受けた人自身が、真実その按手を信仰をもって受けとめた時、その按手は正に正当です。聖霊様は彼の上に働いて下さいます。
 信仰とは当人の魂(心)と霊性の現実です。霊性とは何か。魂(心)の深み、本質とでも言いましょうか。人間の目は、自分自身を見ることが出来ないように、人間の魂(心)と霊性は自分自身自己確認はしますが、自分自身を他人に向かって即物的に証明できません。ここが歯痒いところです。
 しかし、自己確認できる自己の実存において、「私はイエス様を信じます」と言うのです。「私はイエス様を信じている」とはっきり言える私の実存に私自身すっかり安心して信仰を維持するのです。かかる信仰の維持は、人の内部において神秘であります。こういうことが平凡な一人格におこるということこそ、正に奇蹟です。
 私たちは、この私たちの内部における信仰発起とその維持、その奇蹟に驚嘆の眼を開きつつ、信仰生活を推移し、遂行するのです。そして、信仰の完成、天国への希望を達成するのです。
 これこそ、神様ご自身の天国成就の御業の遂行です。こうして神様のご意志が顕わにされ、イエス様の地球における尊き御業が完成し、人類に対する神様の愛が実現され、神様の栄光が表明されるのです。《く》
 
 
愛とは親切のこと   
 
 キリスト教は愛の宗教であると、よく言われる。それでは、愛とは何なのか。分かっているようで分からない。ところで、
 最近、「親切は驚くほど体にいい!」という本を読んだ。(飛鳥新社刊1300円)読んで目が醒める思いがした。
 キリスト教で「愛、愛、愛」と言うけれど、本当は「愛とは何なのか」、よく分かっていなかった。この本を読んで、初めて良く分かった。牧師でこんなことを言うのは恥ずかしいが、愛とは何なのか、初めて分かったのだ。そうだ、愛とは親切のことだった。
 僕の理解では「親切」とは「親しく深く接することである」。だから、親切は深切と書いても良い。(また親接とも深接とも書いてもよいかも)。
 愛という言葉を気分で察すると、なんとなく甘やかされ、抱きしめられ、愛撫されるような心地を味わう。しかし、愛という言葉を、それは何なのかと問い直してみると、なんとなく曖昧である。それを「親切な思いと、その行為である」と言ってみよう。そうすれば、意味がはっきりする。具体的な解釈になっている。
 神様はイエス・キリスト様という人格となってこの地上に生きて下さった。そして尊くも驚嘆すべき死と復活を遂げて下さった。そこには血を吐き、身を滅ぼす切実な思いと行為とがある。それこそ、正に「親切な思いと、その行為である」であると申し上げたい。人類を愛する「神の業」である。
 神の業の発端は宇宙の創造である。神はそのすべてを見て良しとされたと創世記にはある。しかし、その結果はアダムとエバの罪によって汚される。(ここで滅多にない聖書の記事だが、神は後悔されたなどと書いてある。そんなことが有り得るのだろうか。しかし事実、神は後悔された。アダムとエバは神様に重大な恥をかかせ給うたのである)。
 人類の始祖の罪の延流は六千年続き、全地球を覆い、多分その影響を全宇宙にまで及ぼしているであろう。それらの罪の結果を完全に贖い聖め尽くす御業もイエス様にしか為し得ないことである。
 神様ご自身であられ、また自ら人となられ、陰府に下って死を体験された復活されたイエス様こそ、人類の救い主、地球と宇宙の回復者なのであられる。
 我らは身を伏し双手を上げて、我らの主イエス様に賛美と栄光の御称えを捧げよう。この方以外に私たちの救はなく、崇むべきお方はない。ハレルヤ! アーメン! 《く》
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by hioka-wahaha | 2011-10-18 16:23 | 日岡だより
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