No.504 なりたい自分になれた私 2011.9.4

なりたい自分になれた私   

 『「なりたい自分」になる心理学』という本が出ていたので買ってみた。まだ読んでいないが、興味はありますね。
 尤も、私は既に「なりたかった自分」になっているので、その本のいう方法論には興味はなかった。ただ、世の多くの人の「なりたい自分」像に興味が有るだけだった。
 もともと、私は決して、評判の牧師先生になろうなどとは夢にも思わなかった。ただ、真のキリスト意識を内に頂いて、「我はキリストの者なり」という確信を得たかった。そして魂の底から聖別された神の人になりたかった。しかし、本当は私の内にキリスト様が宿り、私はイエス様によって全く義とされた、その確信を得たかったのだ。
 若き日、そんなことは可能だろうかと思った。そのような目標を心に抱いているのだが、どうにもならない、私の内面の品性の実質が全く低劣で、いかなる聖別目標を立てようも、基礎土台となれそうな堅実牢固な精神力が私には全然無い、歴史上の聖者の諸先生がたには及ぶべくもない。そのように思い、私自身の精神の基礎的劣弱さに私は驚き慌て、そして悲しんだ。
 この劣弱な精神構造の青年の魂にキリストの霊が注ぎ込まれる神秘さは喩えようもなく不可思議である。しかしこの神秘さが実現された。
         *
 新約聖書、特にパウロの信仰の特徴は義認論にある。イエス様が私たちの代わりに罪の重荷を負い給うて、十字架の上でお死に下さった。そのイエス様の死のお陰で、私の死ぬべき罪の代価の重荷が取り払われた。即ち、そこで私の罪は消え、私は新生するのである。
 ここの説明を聖書はこう説いている。イエス様は十字架の上で私たち人類の罪を背負って死なれた。その故にイエス様を信じる人たちはもう死ぬ必要はない。彼らの罪は既にイエス様の十字架の上で消滅した。このことを信じるなら、その事実がその信じた者たち(即ち、クリスチャンの一人一人)の上に実現する。彼らの罪は既に消えうせ、彼らの本籍は天国に移された。彼らは死ねば、即座に天国に移される。
 この十字架の上で我らの罪は消えたと信じる心の起こる時、彼らの罪はキリストによってあがなわれた、その贖罪の御業が成就した。この秘義を自分の事として信じる心の起こる一瞬、この瞬間がキリスト信仰の秘密である。
 この時の私たちの信仰の一事を神様は私の義と認めて下さるのである。
 この救の一事は父なる神と御子なるイエス・キリストと聖霊との協同の恵みの働きの結実である。これには如何なるサタンの働きも妨害なし得ないのです。
 神様に賛美、感謝! (釘宮生)



私にとっての禅   

     (二)

 <日岡だよりNo.503よりのつづき>
 私の値打ちは、私という人間の値打ちではなくて、私の肉を包むキリストの値打ちである(今度は内に住むといわず、外を包むという表現を試みる。パウロはこれを「イエス・キリストを衣よ」と言った。内在も外被も同一の真理の表現の差である)。
 一万円札を見よう。これは一枚いくらかしらぬが高くても一円か二円の紙きれである。この紙きれに一万円としての印刷がなされるトタンにこの紙キレは一万円の値打ができる。この紙と一万円の印刷とを切りはなすことはできない。一体のものである。

 私たちが赤い色を見た時、その視覚に応じる言葉を
 「アカ」
とよぶ。それを同じ機構で、英諸国民は
 「レッド」
とよび、フランス人は
 「ルージュ」
とよび、中国人は
 「紅(ホン)」
とでも呼ぶであろうか。
 視覚に映ずる感覚は同じであろうが(実はそれもあぶなっかしいのだが)、その感覚を言語に翻訳(?)する時、それぞれ自分なりの所有言語で翻訳する。

 神が私たちに迫る時、それが感動や畏怖や、英智をうむ。その内的衝動を私は神の純粋言語と呼びたい。その神の純粋言語をそれぞれ持っている思想言語に翻訳してしまう。たとえば、神の性質だが、最高の力とか根底的ささえとか、第一の原因であるとか、そういうものを直覚的に語る時、ある民族は、それを「はじめより在りし処のもの」、そして「万物を造るもの」として表現した。ある民族は「あしかびの如く成り出たもの」と呼び、且つ「万物を産むもの」と表現した。
 そういう表現の語法や語意に目をとめて、その差異を云々するのはアカと紅の差を論ずるに等しい。些かの表現の差のある事は勿論である。それに目をとめて、いろいろ考えることも学問上の研究としては正しい事もある。しかし、事実に即して生活するものにとり、その差は取るにたらない。
 <つづく>
 (1973.11「心に満つるより」No.2より)
 
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by hioka-wahaha | 2011-09-06 16:21 | 日岡だより
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