No.187 「読み聞かせ」の極意 2005.7.31

「読み聞かせ」の極意

 志茂田景樹さんの自作童話の「読み聞かせ」活動の現場に触れて来ました。トキハ本店の地下です。時間がなかったので半分ほどで早退して、大変失礼でしたが、私は大変よい勉強をしました。
 子ども向けの童話ですけれども、大人の私たちも聞いていてジーンと心にしみます。洗練されたテキスト、その持っているメッセージ、更に話してくれるその人の人格から発散される暖かさ、そうしたものが私たちの心を打つのでしょう。
 私は教会に帰って、考えさせられました。そして発見しました。「読み聞かせ」こそ、聖書が率先してやって来たことではなかったか、と。
 グーテンベルクの印刷術の発明は聖書の大量印刷をもたらし、聖書はそれ以来毎年ベストセラーになった。これは宗教改革の成功を荷なう功績でもあった。しかし、聖書の音読の習慣をさまたげ、更に聖書の読み聞かせの重要さを忘れさせるマイナス面も生じたわけだ、と今にして思わせられるのです。
 かつて古代、聖書は写本であった。教会では牧師が聖書を朗読した。パウロは弟子のテモテに「教会で、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい」と言っている。
 旧約時代では尚更のことである。モーセは民に律法を読んで聞かせた。またネヘミヤ記8章を読むと、学者エズラが広場であけぼのから正午まで律法の書を明瞭に読んで聞かせた。その時、民は大いに喜んだとある、有名な「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という聖句が生まれるのもこの時です。
 古代の教会は聖書の「読み聞かせ」の極意を持っていたのではないか、それを現代の教会は失っているのではないか、と思わせられたのです。《く》


救いの条件ただ一つ

 大分市の森町にある専想寺というお寺は由緒ある古いお寺だ。その初代のお坊さんがしっかりした信仰者だったと聞いている。そのお寺に、今おられる和尚さんも熱心な布教精神をお持ちのようで陰ながら尊敬している。
 この方は毎月一枚の紙に法語を書いて、あちこちに掲示板を立てて貼っている。私方の近くにも、その掲示板がある。
 仏教の方の書く、この手の標語類は日本人の心に素直に入り込む特徴があって、いつも羨ましく思うが、今回の法語はこれだ。
   「お救い」に
   ご注文無しの
   アミダサマ
 この、真宗信仰の徹底ぶりには恐れ入る。私も少々呆れたほどだ。しかし、私たちでも「委ねきる」信仰を持つ時、これに似た心境になることがある。主観的告白としては肯定できる信仰表現であろう。
 でも、正確にいうと、やはり「ご注文」はあるはず。真宗で言うなら、「親鸞におきては『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』と、よきひとの仰せをこうむりて、信ずるほかに別に子細はなきなり」という歎異鈔記載の言葉のとおり、「念仏」だけが唯一のその「ご注文」であることが分かる。
 とは言え、やはり前述の「ご注文無しのアミダサマ」には何か教えられるところがあります。
 さて、私は若い時、前記の親鸞の歎異鈔や、法然の一枚起請文によって、真宗信仰の深さを学んだのだったが、もう一つ仏教で学んだのは禅宗だった。
 禅宗の要点は私に言わせれば「全宇宙、これ無、これ空」とまとめることができようか。般若心経で言う「色即是空、空即是色」である。
 最近、この言葉を柳澤桂子さんという生命科学者が苦しい闘病生活の中で悟ったという本が出て、その本の書評を読んだのだが、よく釈迦の宇宙観を見ていると思えた。とは言え、肝心なことは、
 思想体系として般若心経を読むのではなく、その中核を悟ることにある。「悟る」ということは禅宗体験の中心である。柳澤さんは本当に悟ったのかなと、やんちゃな詮議心も湧くのです。
 仏教では宇宙をただ「在るもの」として見るのだろうか。そしてこれも所詮「無である」「空である」と言うのでしょうか。対して、聖書は言います。
 「初めに神が天と地とを創造した」(創世記1:1)と。神は又、自ら「私は有って有るものだ」(出エジプト記3:14参照)と、自己宣言します。
 聖書では神は自ら語り行動する方です。だから作られたものも自動運動を起こします。じっとしていると見えるものも、内部では原子構造は営々として働いているように。そして運動は時間を生みます。
 「時間は運動の物差しである」と言ったのはアウグスチヌスですが、「存在と時間」は実存哲学者に待つまでもなく、太古の聖書以来の神学的課題です。
         *
 ともあれ本題に戻ります。「悟る」ということは真宗にもあります。それを「廻心(えしん)」と言っています。心が信仰に転じる時の心の動きを差しているのです。これはキリスト教で言う「回心」に似ている。
 親鸞は言う、「腹を立てたり、悪いことをした時、必ず廻心せよという人がある。そういう人はきっと廻心という言葉を断悪修善のことと思っているのだろう。(キリスト教でいう「悔い改めよ」というのに似ています)。
 しかし、親鸞は言う。「私たち信仰一筋の者にとって『廻心』はただ一回のことである。これまで信仰のことを何も知らなかった者が、弥陀から知恵を頂いて『今のままの心では極楽往生はかなうまじ』と、本心を引きかえて弥陀の本願を頼みまいらすことを『廻心』と言うのである」と書いている。(文章は現代調に書き直した)。
 この「廻心はただ一回のことである」という所が親鸞の体験と認識の凄い所である、この「廻心」とは、一人の人の前生涯と後生涯との分水嶺であってキリスト教でも同様である。
 生涯を信仰に転換させる心の動きを「悔い改め」と呼ぶのは危険なので、私は必ずこれを「回心」と呼んでいます。(この回心については石原兵永先生の「回心記」を読んでほしい)。
 マルティン・ルターが「クリスチャンの生涯は悔い改めの生涯であるべきである」というのは、この回心ではない。しかし、生涯にくりかえし、もたらされる聖霊充満の経験を回心経験と称する方々もおられるが、これは最初の回心とは区別して聖霊経験とでも名付けたほうが良いと思う。
 冒頭に戻るが、聖書に従えば、私たちの救いについて「ご注文が無い」とは決して言えない。ただ一つの注文が聖書に載せられている。それは、「主イエス様を信じる」ことである。主イエス様のお名前に頼ることである。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」のである(ローマ10:13)。
 だから、「この人(イエス様)による以外に救いはない。わたしたちを救い得る名は、この方を別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)と聖書は言います。
 このイエス様を信じる心が起こる時、人生ただ一回の奇蹟が起こります。その時、私たちは神様の子になります。「その人は新しく造られた者」と言われます。「古きは過ぎ去り、すべては新しくなった」(第二コリント5:17)という回心の奇蹟です。
 更に引き続き、「内なる人は日毎に新しくされていく」(第二コリント4:16)ということが起こります。回心後の成長の奇蹟です。御霊の賜物と御霊の実が加えられ始めます。聖霊のバプテスマを受けて、喜びに溢れ、新しい言葉を語り、力ある信徒に成長します。信仰は日々成長するのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-07-31 00:00 | 日岡だより
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