No.496 天国の鍵を握る者は誰か 2011.7.10

天国の鍵を握る者は誰か   

 「天国の鍵を握る者は誰か」
 この答えはマタイ16:19を読めばすぐ分かります。イエス様がペテロに仰有っておられます。
 「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」、と。
 勿論、カトリック教会ではローマ法王様がその鍵を使徒ペテロより継承されていると言うでありましょう。私どもプロテスタント教会では、各教会の牧師先生方がそれぞれその鍵を頂いているはずだと言うでありましょう。
 牧師任命の按手を何処で頂いたか、その証明書を持っているか、などと問いただされますと、私のように一人合点で伝道に乗り出した人間は些か身分に安定を欠くことになります。そうしたら、永井先生が私に名誉牧師の称号を先生の教団名で下さいました。有り難く思って、感謝して、その楯を牧師館の応接室に飾ってあります。
 私の人生では初めての事であります。先生の教団の名誉を傷つけないように心したいと思っています。最近は、もうどなたでも私を永井先生の教団の一員と思っておられるでしょうが、実際は最近やっとこういうことになったわけです。永井先生のお心遣い感謝しています。
 しかし、天国の鍵を握る者は聖書に従えば、使徒ペテロであると答えるのが正しいだろうと思いますが、これは私の聖書理解、本当は分かりません。天国の門をくぐる時、迎えて下さるのは果たしてペテロ先生でしょうか。ご期待を。《く》



私にとっての禅
   
         (一)
         
(先々週よりのつづき)
 ルターの有名な言葉に「私はいつも一時間祈るのだが、今日は特に忙しいので、三、四時間祈らねば到底だめである」というのがある。信者さんを祈祷生活に発奮させようとして、しばしば牧師さんに使われる実例(?)であるが、それがルターの実例であって、その牧師さんご本人の実例でないため、効果のうすいことおびただしい。
 プロテスタント教会でいう「祈り」とはしばしば「心のありたけ、口からで出まかせ、人間の思いをそのままはき出す」ことにほかならず、それはストレス解消と自己暗示療法に役立っているというものの、それ以上の宗教的境地に導くには非常に困難を覚える―――それが現在のプロテスタント教会の実態ではなかろうか。修道院などの長い伝承をもつカトリックではその点非常に有利な教育遺産をもっているのではないかと思う。
 私がかつて「祈祷について」の指導テープで私の体験から推して「いぶきの祈り」「手刀の祈り」等といった一種のメリハリのきいた祈りのしかたを提言し、それがいかに日本の神道などで実証されているかを示した。カトリックでいう「射祷」は私のいう「吹矢の祈り」か、「手刀の祈り」に似たものだろうが、そういう処に伺い知られるカトリックの祈祷指導の深さに私は目をとめるのである。
カトリックでいう冥想(Meditation)とは、坐禅とは大分趣を異にするが、また現代プロテスタント教会の祈祷とも相当かけはなれているように思う。
 さて、上述のルター体験であるが、あれは多分プロテスタント流の「おらび祈祷」ではなく、冥想的祈祷であろう。最近、山本先生の雑誌(「真の光」)で、神戸の佐藤先生が毎夜七、八時間祈るのだと書かれてあって、感動とおどろきと畏怖さえ感じたが、そういう迫力と持続の祈祷の秘訣は「おらび祈祷」ではなかなか?めない。ましてお上品な「メソメソ祈祷」ではね。
 最近、私は一、二時間の坐禅を続けることによって、上述したルターの言葉が体験的によく分るようになった。スポーツの選手が、マッチの前に十分にトレイニングしておかねば気がすまぬように、私も今日は特に重要問題が多いぞ、忙しいぞ、という日には、日頃より早くおきていつもより余分にすわっておこうとという欲望にかられる。このあたりの心境の説明がむつかしいが、ご利益を求めずに坐るのであるし、また坐っている時は決してそういう欲望が心にわきはしないが(湧いたとて、それを放っておくのでもあるけれど)しかも、その御利益を望んで、早くすわろうといそいそと坐禅の坐につくのも事実である。(つづく)
 (1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-07-12 16:04 | 日岡だより
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