No.493 主の御名を呼び求めよ、さらば救われん 2011.6.19

主の御名を呼び求めよ、さらば救われん

 標題は使徒行伝第2章21節の御言葉です。昔軍隊で、上官から名前を呼ばれると、誰でも「ハイッ」と答えて隊列から前にパッと一歩踏み出したものです。そして次の命令を待っているのです。例えば、その命令が、
 「敵陣に向かって突進せよ」と言うのであれば、部下たるもの、その命令のままに命も惜しまず、駈け足で突っ込まねばなりません。
 ところで、この標題では、そんな難しいことを言っているのではありません。ただ、「主の御名を呼び求めなさい」と言っているのです。「そうすれば救われます」という大変な約束のお言葉です。「救われる」とは、罪人の立場から引き抜かれて、天国の身分を与えられるということです。
 聖書的に我々自身を顧みれば、やがて死ねば地獄に落ち込むべき死刑囚の身分です。それが、天国に行けるという、有り難いお言葉です。どうすれば天国に行けるのですか。ただ主イエス様のお名前を呼びさえすれば良いというのです。耳を疑いたくなるような有り難いお言葉です。《く》


神兵演歌

(一)おいらのイノチは神のイノチ
  神のイノチが躍動すれば
  ちっちゃな人生 ひっくりかえり
  悪魔けちらし再発進

  (補)なりはやくざにやつしてみても
    月よみてくれ血潮のにしき
    生れかわって天与の水に
    生きる男の晴れ姿
           (勘太郎月夜唄模作)

(二)人を愛せば生命をすてろ
  国を愛せば家をもすてろ
  金も名誉も友さえいらぬ
  神と一つに生きる道
 
(三)前進前進一歩もひくな
  神の兵卒くじけちゃならぬ
  御霊のほのほにやきつくされて
  宇宙完成なる日まで
 
 これは昭和四十五年の秋、宮崎旅行のさい作詞した演歌風讃美歌。私は旧来の讃美歌はあまり好きではないのである。少々ふざけた作品だが、唱うといいですよ。下手ですが私なりの曲もあるのだが、どなたかいい曲を。(くぎみや)
       (1973.11「心に満つるより」No.2より)

 
私にとっての禅   

         (一)
 今日(一九七三・九・二四)は小倉にいくので、N君に大分駅まで送ってもらって「ゆのか一号」に乗った。私はなるべく自動車は使わない、汽車(本当は今乗っているのはディーゼル車だが)に乗ってゆったりした気分でいくことを好む。それで、できることなら、グリーン車を選ぶ。少しぜいたくかとも思うが、私にとり、車中もまた精神的生産の場処であるので、それもよかろうと自らに許している。
 今年の五月か六月だったか、福岡まで行くのに、やはり同じようにしてグリーン車に乗っていった。例により客は少なく、私は明るい車窓に孤独をたのしんだ。若い時の私はこういう時、わずかの時間も惜しんで、読書をしたものであるが、最近は読書よりも黙想をたのしむ。その日は、私は黙想というよりも、もっときびしい坐禅風な瞑目を私に課した。中山香駅(大分駅より八つ目ぐらい)より、目をつぶって、数息観をはじめ、数を十でとめずにドンドン数えつづけた。おおよそ二時間半、五六四息で博多駅についた。当時坐禅のまねごとをしていた私にはこれは、非常によい体験になった。それ以後ずっとすわりやすくなったように思う。
 けいこごとなどがそうだと思うが、毎日少しの時間でよいから、うまずたゆまず練習をすることと、時折思いきって時間をかけて重量のある練習をすることとが、進歩するコツだと思う。毎日といえば、「当時坐禅のまねごとをしていた私」と書いたように、その頃五月十三日より独習で坐禅をはじめ、七月に入ってK君に相伴して大分市の万寿寺の僧堂で二週間ほどすわり、以後今日まで既に四ヵ月毎日三十分~二時間ずつ坐りつづけてきている。坐禅をしていると、たしかに微妙な変化がおこる。ただ私には、まだ禅宗でいう「見性」ということが分からない。私は既にキリスト教でいう直覚的回心をしているからか、禅宗でいう「見性」ということがある面でのみこめる。それがかえって、ややこしくなる原因かもしれない。
 八木誠一がドイツの汽車の中でカツ然と心境のひらける体験をして(私にいわせれば、それはまさしく回心である)、それを禅僧にいったら、それは禅宗でいう「見性」と同じであるというような返事があったという。それが本当なら、私はすでに見性しているということになるが、果たしてどうなのか。私は職業的宗教家のその内実に信用がおけず、そのまた信用できないという私の直観がしばしば正しかったというこれまでの経験から、私は宗教的大物に会うことに一種の怖れをもっている。そんなわけで、まだ老師級の人に会っていない。それだから、勿論、独参などという事もなく、私の回心体験を禅宗でいう大小の見性のどの辺に位置づけていいのやら、またまったく見性などになっていないのやら、よく分からないのである。以上のようなことで、私と禅の関係は、宗派的にいえば非常にあいまいなのであるが、「禅」と「禅宗」とを区別して、純粋禅として考えれば私は相当禅に深入りしてしまっており、一種言うべからざる「キリスト禅」とでもいうべき世界にのめり込んでしまっているのではないかと思う。(つづく)
      (1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-06-21 15:33 | 日岡だより
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