No.492 豊かな恵み、ご聖霊様の恵み 2011.6.12

豊かな恵み、ご聖霊様の恵み   

 今日はペンテコステ記念日です。聖書は使徒行伝から3か所、み言葉を選ばせて戴きました。まず使徒行伝第1章1~8節、続いて第2章1~4節、次に同じく第2章17~21節です。
 ペンテコステとはギリシャ語で「第五十日」のこと、過越節の日から50日目に守られた五旬節と言われた祭の日です。イエス様がご復活の後、40日地上で過ごされて、オリブ山から昇天された。その昇天の日から10日たって、この日が来る。第五十日です。バプテスマのヨハネが予言した聖霊によるバプテスマの日です。
 使徒行伝第2章1~4節に、その日の模様が記されている。正にイエス様のお約束の実現でした。神学的には、この日がキリスト教会の始まった日であるとされます。
 私は「聖霊」と呼び捨てに申し上げたことは、ある時期から、絶対にありません。私にとって聖霊様は神学用語ではなくて、ある時から親しき私の友としての呼び名となりました。親し過ぎて尊敬の雰囲気を失する怖れもありますが、私は敢えて用います。聖霊様とは私の親しき友人としての呼びかけであります。しかし、親しいだけではない。最高の尊敬の念を取り残す訳には行かない。そこで「御」の字を加えて御聖霊様とお呼びすることも多いのです。
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 求道の過程において御聖霊様が働いて下さって、私どもの魂に信仰の心が湧き起こります。正に奇蹟です。信仰とは人間の意志決定ではありません。それに非常に似ていますが、人間の意志が神様の愛の前に屈服することであります。
 「ああ、私は死んだ。私の内にイエス様が生きておられる」。そのことが、私の魂に生起します。もう一度言います。これは正に奇蹟です。もう、私は生きていない。生きているのは私ではない。私の内にあって生きているのは、正にイエス様である。この事実に圧倒されます。
 こうして一人のクリスチャンが生まれます。はっきり言えば、その人の信仰ではない、信念でもない。「我もはや生くるにあらず。キリスト、わが内にありて生くるなり」というガラテヤ書2章20節のお言葉が、正にそのお言葉が、その人の魂に現実として起るのです。信じさせられたという感じです。
 ハレルヤ! 主が勝利されたのです。私に信仰させまいとするサタンの陰謀や妨害に主は勝利されたのです。私はそれまで、イエス様の救を信じたいと、どれほど願ったか知れません。しかし、どれほど願っても私の心は信仰に傾きませんでした。この奇妙に頑固な私の魂、イエス様の救を信じたい、信じたいと幾ら願っても信仰に傾かない我が魂を我は如何ほど呆れ、また憎んだことでしょう。
 この私の頑固な魂を砕く方は御聖霊様しか、いらっしゃいません。イエス様を信じたいと幾ら願っても信じることは出来ませんでしたが、その不可能を可能にして下さるのは、正に御聖霊様です。御聖霊様が私に臨む時、一切が解決しました。ハレルヤ! アーメン! 
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 使徒行伝第2章1~21節をお読み下さい。そこには初代教会の誕生日の記録が残されています。イエス様の昇天後、教会が力強く発展する状況が書かれています。
 彼らには金も、この世の権力者たちも、応援するものは何もなかった。しかし、信仰と、特にあらわに表われて世間の人々を驚かせ、クリスチャンたちを勇気づける聖霊様の働きがあった。当時のクリスチャンたちはカラ元気ではなかった。確かに聖霊様の具体的な確かな応援があった。
 日本のキリスト教会の総体的信者諸君の欠点はオトナシ過ぎることである。もっと勢いよく、暴れ廻る獅子のごとくあってほしい。伝道でも元気が良すぎて、何処にでも出かけて行く。牧師は心配で教会でオロオロしている、そのくらいで良いのです。《く》


所詮ことばにならないが…   

 イエスは神の独り子である。これが正統的キリスト教の信条である。神に独り子があり、それがイエスなら、他に子供は無い。一つの場所を二つのものが同時にふさぐことはできないという初歩的物理学の原則に似た、初級算数の理づめである。
 「この独り子イエスによる以外に救いは無い。わたしたちを救い得る名は、これを別にしては天下のだれにも与えられていない。」――――これが使徒行伝第四章十二節における聖ペテロの宣言である。これを言葉通りにとると、おシャカ様も、孔子サマも、道元サンも、日蓮サンも救われない。そんな馬鹿な事があるものか。人を救うのは、あのイエスという人物ではない。イエスをキリストたらしめた、そのメシアとしての実存である。それが神の独り子性だ。その神の独り子としての脱イエス的実存が、全世界、全宗教の救いであると、かねてより思っていた。その実存が、「一即多」として、万人共同体験できるし又、万人共同保有の筈のキリスト性であるとしたら、神の子は「独=全」という数式がなりたつ。
 これはいけない。これはいけない。こうして理づめで反キリスト教的な口吻をもらしてみても仕方ないことだ。
 「キリストの死が私の死、キリストの生が私の生」という、起死回生的一大事実を、我が体内に経験しなければ何もならない。 (1972.12.6「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)

〔あと書き〕
信仰には関係ないことですけれど、今大分市内の「芸術会館」で、豊墨会主催の書道展が行われています。今日一日ですから、お薦めするのも遅すぎましたけれども、時間があったら、お出でください。ここでは、絵もよく展示されるけれど、私は絵はよく分かりません。それに比べれば、字のほうは少しは分かるのです。佳い字と、そうでない字との区別はつくのです。これは大分商業学校在学中、そこで学んだ習字の先生が良かった。三雲鉄郎先生とおっしゃる。この先生に上手な字ではない、佳い字というものがある。それを教えて頂いたように思います。深く、深く、感謝している次第です。余計なことを書いてしまいましたが、あしからず。《く》
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by hioka-wahaha | 2011-06-14 13:48 | 日岡だより
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