No.489 悪魔と戦おう、全き勝利を得よ 2011.5.22

悪魔と戦おう、全き勝利を得よ  

 私どもクリスチャンは、この世においては多くの戦いを体験しますが、その本当の敵は悪霊どもです。
 その戦いは千差万別ですが、意図的な敵にしろ、知らずして敵対して来る世の勢力にしろ、その背後にいる本当の敵は悪魔です。
 悪魔とは悪霊どもの頭(かしら)であります。彼は父なる神様に背き、御子なるイエス様に敵対する親玉です。
 悪霊どもはこの悪魔から、その悪しき力と技量を分けて貰い、それを思う存分に悪用して神の僕どもに敵対するのです。
 私どもイエス様の僕たちは、この世にあって様々な戦いを経験しますが、すべてそれは悪魔の子分どもとの戦いです。彼らの背後には悪魔、その名はサタン、こいつがいます。彼らは強力です。また我々をあしらうのに巧みです。あの手、この手と使い分けます。

 イエス様が世に立ち給う時、ご謙虚にもバプテスマのヨハネからバプテスマを受けようとなさいました。ヨハネは驚いて「私こそ、あなたからバプテスマを受くべき者でありませんか、どうしてあなたが私のところにお出でになるのですか」と反問しています。尤もなことです。
 その時、イエス様は「今は許してくれ。一応、順序を追おうではないか。まず、君からバプテスマを受けたいのだよ」とおっしゃるのです。
 ヨハネは知っていました。「私より後に来る方は、私より力ある方です。私は水でバプテスマを施すが、その方は聖霊と火とにてバプテスマを施すでしょう」とかねてより言っていました。
 でも、まだまだ、その時のヨハネの知識は半可通だったと思います。本当に聖霊様が火のごとく、主の弟子たちを襲う時が来ます。それはイエス様が十字架の苦しみを通り抜け、天に帰り、御父の御もとより、改めて聖霊様となられて弟子たちの魂を占領する時です。
 魂というものは、その人の「持ち物」ではないのです。魂とは、その人自身です。だから正確に言えば、真の聖霊のバプテスマとは「聖霊様が火となって、その人自身にとどまり、かつ彼自身を燃やし続けることです」と言えましょうか。
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 聖霊様とはイエス様の別名です。また父なる神様ご自身です。父なる神様が地上に降り立って人の姿を取りたもうた時、その方がイエス様です。そのイエス様が聖霊の火となって、私たち自身を訪れて下さる時、一大事変が起こります。私たちの中に神様が生きて下さるのです。
 ある人が、この私の言葉を聞いて驚いて叫びました。「そんなことって、あるでしょうか。そんなことが起こったら勿体無くって、私は死んでしまいます」。
 私は答えました。「そうです。その時、誰でも、みんな死んでしまいます」。
 キリストにあって死ぬことこそ、本当に生きることです。このことが思考の操作によらず、あなたの内に事実として実現する時が来ます。案外ですが、簡単に起こるのです。一瞬です。見事です。
 あなたの努力では起こりません。イエス様を見上げるだけです。声を上げなくてもよい。心の中で「イエス様あ~」と御名をお呼びして下さい。
 自力で死ぬのではありません。ただ、イエス様を見上げて、心の中で「イエス様あ~」と御名をお呼びするだけです。イエス様を見上げれば、見上げるほど、御名をお呼びすれば、お呼びするほど、あなたは無くなるのです。死ぬのです。そしてあなたの中にイエス様が生れて、父なる神様を拝しているのです。ああ!
 信仰とは努力ではない。あこがれです。恋愛です。信仰とは神様に恋い焦がれることです。神様は霊的存在で目に見えません。もっと身近に見たいでしょう。それがイエス様です。イエス様は見える方です。イエス様を心の目で拝して、「イエス様あ~」と御名前をお呼びください。それが信仰です(神学は後回し)。
 イエス様のお名前をお呼びすれば、お呼びするほど、イエス様は私たちに近く迫って来て下さいます。
 「イエス様あ~」と叫びましょう。イエス様はなおも私どもに近づき、私どもの中に入って下さり、またとどまって下さいます。そして私たちは世のすべてに、その背後の悪魔に対して全き勝利を得るのです。《く》


入れ物がない  

  入れ物がない 両手で受ける   放 哉

 私は、旅行で小豆島の沖をとおる時、必ずこの句を思いだして涙を感じる。私は、放哉と同じように一燈園にとび込んで、しばらく紺木綿の筒袖姿になった事があるので、ひとしお感慨が深い。「入れ物が無い……」そういう人生がよい。そういう信仰がよい。総務部長、そういう入れ物になにがしの月給がはいる。キリスト教、そういう入れ物に、神学、信条、その他いろいろの思想がつまっている。
 私は、信仰の世界で一個の無政府主義者である。無国家主義者である。入れ物が無い……ということである。
 私の信仰は、主観的にはキリスト教を一寸たりともはみだしていると思っていないが、キリスト教界はこれを認めまい。私もまたそれを認めてもらおうとは思わない。私に共鳴し、私と信仰を共にする人は、決して多くは無かろうと思う。しかし、一個半個の人物が私のあとを継いでくだされば、私は幸甚である。その幸福を、今あらためて、主に祈りたいと思う。 (1972.12.6「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録)
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by hioka-wahaha | 2011-05-24 14:10 | 日岡だより
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