なぜこんなことが
この度の大震災について、ある日本人少女がテレビを通してローマ法王に質問しました。「なぜこんな悲しいことになるの」と。 それに対してローマ法王は「私も『なぜ』と同じ思いを持っています。答えはわからないが、無実のキリストの苦しみを通して来られた神はいつも私たちとともにいます」というふうに答えているそうです。新聞記事に載った抜粋された言葉なので確かなことはわかりませんし、7才の少女に直接答えたせいもあるのでしょうか、何だかあいまいな答えのようで残念です。 なぜこのことがあの人ではなく、私に起きるのか、という問いにすりかえてしまっているように思います。しかし、少女が聞きたかったのは、なぜ世の中にこのような悲惨なことが起きるのか、という誰しもが考える命題ではないでしょうか。 聖書を開きますと、地震はしばしば神様からの裁きか、警告か、もしくは親切な助言です。なぜこんな悲しいことが起きるのか。私に言わせれば、答えは簡単です。人間の始祖、アダムが罪を犯したからです。その罪の報いが、今回の地震どころじゃない、ノアの洪水のような大悲惨事以後、次々と地球上にはひどい事が起こっているのです。(ノアの洪水は全世界を水で覆い尽くした地球の歴史上、ただ一回の大悲惨事でした。) さて聖書の年代に従いますと、アダム以来、イエス様まで4千年です。イエス様から現代まで2011年です。計算するとアダムから現代まで6011年ですね。7という数は聖書では神聖数です、かつ完全数です。この6千年代が尽き、歴史が7千年にいたるとき、黙示録の地球が滅びるという預言が成就するはずです。 我々は最後の千年期を迎えている訳です。まだ後、989年控えているのですから、あわてる事はなさそうですが、聖書的年代感覚ではみれば、歴史も押し迫っているという感じです。 さあ、我々は人類の歴史の最後の舞台に立っていることの神秘さ、厳粛さ、際どさ、を感じとりましょう。そして、大いなる主の御顔を仰いで、どんな悲劇的な地球規模の災害からあなたがたは救われるよう、主の憐れみを乞い願いましょう。《く》 人は永遠の求道者 「信仰」というと、熱してのぼせ上ったような心理状態を推測する人が多かろう。 そういう「信仰」もあるかもしれないが、しかし、あくまでクールな醒めきった「信仰」の方が、更に深い境地なのだと思われる。 * 救いがたいのは「信仰」を利得の道と心得ている人たちです。 しかし、そういう低い境地の人をこそ探し求めるのが神の愛です。 その神の愛になれて、いつまでも物質的信心生活になじむ人に、神は時折カツをくれる。 * 最初の回心で、何だか卒業したみたいになって、信仰の進歩を見せぬ人がある。そして自分の「信仰」にとらわれて、そこから抜けだせない人がある。 かっての信仰体験が、新しい信仰の仇になる人が多い。それをパリサイ人という。 * 科学、科学と言って、宗教をバカにするのは、科学迷信である。 信仰、信仰と言って、科学をかえり見ぬのは狂信である。 科学的に、宗教を心霊学や心理学に結びつけて安心しているのは似非科学者である。 科学の科は、百科事典の科。科学とは、分析・分類の学である。宗教は一括直覚の体験である。肺活量をしらべるのは科学であるが、山頂に立って深呼吸する空気のうまさは宗教である。 * 信仰は真の求道心をおこさせる。信仰に入るまでの人を求道者というのは間違いである。あれは溺れかけている人が救を求めている状態で、求救者である。泥水から救われ一応地面に上ってから、今度は道を求める。 人は永遠の求道者である。 (1972.7.22「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録) いい勉強だった 生活汚物と工場廃液が川や海をよごしています。 同じように、人の吐く息や思いが宇宙をよごしているのですヨ。 そして、歴史の深淵には全時代の人類の悲しみが堆積しているような気がします。 本当の、魂のクリスマスを待ち望むのは、全人類の声でしょう。 * 昭和四十八年十二月三日夜、これを書いている。企業合併で、私の経営していた光研印刷(株)を事業閉鎖して、あたらしく大分県印刷センター協業組合をつくった。その新工場のオープンが十月一日で、私はその総務部長の席についた。今、オープン以来やっと二ヶ月たって、少々おちついて来た。長く休んでいたこの通信をぼつぼつ再開しようと思う。 * 私に新しい人生がめぐってきていることを感じる。十年間、チャチな企業であったが、一応経営者の真似事のようなことをしてきた。いい勉強であった。この間、私の信仰はキリスト教のわくをはみだして、東洋風な「一即多」の心境に達したように思う。物を持ち、金をもうけ、人を使う生涯には、ぼつぼつお別れの時が来ているように思う。それが今だ。 (1972.12.6「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録)
by hioka-wahaha
| 2011-05-17 15:11
| 日岡だより
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