No.486 祈りのコツ 2011.5.1

祈りのコツ 

 「祈りとは神様との会話である」とは、よく言われますが、それはともかく、一般的には、祈りとは何かと問われれば、多くの方にとってはたぶん「神様への訴え」、もしくは「願い」あるいは「求め」なのではないでしょうか。
 日本語の「祈り」という言葉そのものが、正にそういう音韻を持っていると私は思っています。
 「イノリ」のイは強調を表す『イ』でして、「息を止めて、腹に力をいれて意気込む感じの『イ』です」。「イーッ」と気ばっている感じですね。
 それに続く「ノル」は宣言の宣、『宣(ノ)ル』です。神社で神主さんが「祝詞」(ノリト)をあげると言うとき、神様に向けて意図する言葉を「宣言」している、そういう感じです。息をこめて『宣(ノ)ル』という言葉なのです。
 そこで大和(やまと)言葉で考えれば、「宣(ノ)ル」は「乗る」でもあります、言葉に意志を「乗せる」のです。ですから、神主さんが神社で「祝詞」を上げる時、言葉以上の言葉、つまり意図(志・こころざし)を言葉に乗せて、神様に申し上げている、それが神社での「祝詞」(ノリト)なのです。
 以上は、日本の神社での「祝詞」を例にして、祈りという言葉を大和言葉風に読んでみたのです。そうすると、日本語の「イノル」という言葉は、やや強い意志をもって、その心を言葉に乗せて、神様に申し上げるという言葉なのだと、理解してみたわけです。
 これは、私たちクリスチャンが神様に向かって祈る時の心がけの参考になると思います。意志を強めて神様の前に宣言するという意気込みで祈りなさいと、聖書は私たちに告げているのだと言うわけです。
 このような祈りは、どちらかというとセッカチな談判風な会話です。こういう祈りに対しては神様からのお答えは滅多に聞けません。私たちの方から言いっ放しです。こういう祈りに対しては、神様からのお答えは、言葉ではなく、事実としての応答がある。つまり病気の癒しをお祈りしたら、さっそく祈りが答えられて即座に熱が引き、痛みが無くなったとか、資金が不足して困っている時、専務が「社長、祈りましょう」と気を取り直して、二人で床に平伏して祈ったとき、「あしたまで待て」と二人とも同時に、お声を聞いた。二人は顔を見合わせて「ハレルヤ」と叫んだ。その翌日、てんで当てにしていなかった得意先からドンぴしゃりの金額の送金が届いたなどと言うこと、よくあることです。
 もっと素晴らしいのは、祈っている時、突然、心の底に強く聖霊様の響きがグンと来て、確信が湧きます。「大丈夫だ!」。思わず立ち上がって叫ばされます。
 いつもだったら、行くのも億劫な気分の重くなる先方の社長さんの前ですが、その時は気後れもなく、さっさと行けるんです。既に社長さんの机上には承諾の書類が出来上がっている。そういうことが起こりますよ。
         *
 さて、冒頭の言葉に帰ります。「祈りは神様との会話である」、よく言われる言葉です。正に、正しいのです。
 ところで、この会話としての祈りは、穏やかな談話スタイルです。いろりの前で火にあたりながら、あれこれと思うままに話している。あるいは海辺に行って、かなたの水平線を見ながら、会話を楽しんでいる。そういう感じで会話を進めて行く。そんな祈りで神様とのお相手をさせて頂きませんか、これは楽しいですよ。
 或いは、神様には大変失礼な感じですけれども、私のように年齢も老いて来ますと、朝などは意識は半分醒めているのに夢を見ながら、その夢の中で神様と会話式の祈りをしている、というようなことも多いのです。
 「神様、今日は誰か訪問したいのですけれども……」、こう祈りはじめると、「そうかい、松本君がよいと思うね」
 などと、お答えを感じるかも知れません。そのまま、神様との会話を続けます。「そうですね、松本君は最近、神経衰弱の感じです」
 「彼はねえ、最近、奥さんのお母さんが同居しているでしょう。あのお母さんに気を使い過ぎているんだよ。思い切って大胆に楽しく話しかけてみるように勧めてご覧」
 こうして神様との会話が始まるかもしれません。
 会話式祈りは、声を出さないで。心の中だけで。ひとり言のように、つぶやくように、延々と祈りを続けると上手く行くと思いますよ。
 朝、床の中で目が醒めてウトウトしている感じの時、気がついたら、この祈りの練習をしてみてください。会話式祈りの良い練習になります。
 少し、遊びめいた祈りの練習法ですが、試みてみてください。《く》


ギリギリ一杯 

私は、説教の中で、「私の話はかば焼のにおいをかがしてあげるだけで、本当のかば焼を食わせてあげ得ないけれども――――――」と言ったら、あとでA姉いわく、「先生ちがいます。私は今かば焼を食べていますと言って手を上げたかったくらいです」と。こういって下されば、説教者もミョウリにつきる。いつ死んでもいい。私は今の私の説教が立派な説教だとは夢にも思わないが、私にとっては最高の説教であると思っている。私に与えられた神のめぐみがギリギリ一杯語られている。これ以上うまいことを言えばそれは偽善。これ以下を言えば不忠実。語られる内容を聞くのでなく、語らせるものと語らされているものとの間柄に気付いて主を崇めてほしい。
最近の私の説教、これは私の遺言に等しい。(一九七二・九・三 夜)
 (1972.9.6「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録)


〔拡大宣教学院をご支援ください〕
■郵便振替(郵便局)
 口座記号番号  02240-7-34622
 口座加入者名  拡大宣教学院
http://gospeltown.web.infoseek.co.jp/ 
[PR]
by hioka-wahaha | 2011-05-03 14:40 | 日岡だより
<< No.487 母の日に祝福あれ... No.485 復活の恵み 20... >>