No.484 勝利の入城式 2011.4.17

勝利の入城式 

 今日は教会暦では「しゅろの日曜日」と呼びます。今日から「受難週」に入るわけです。
 受難週というのはイエス様が十字架にかかられる苦難の最後の一週間のことです。しかし実は最後には復活されて父のいます天に帰られるのですから、受難週とは言うけれど実は逆転の勝利を飾られ、天へ凱旋されるのです。
 ある人が歌いました、「我死なば鯉幟をば立てよかし。凱旋したるしるしばかりに」と。正にその凱旋の主人公がイエス様です。私たちはイエス様のお供をして、おこぼれの凱旋です。おこぼれと言ったって、金賞ものの凱旋です。
 聖書を読みましょう。ヨハネ福音書12:12~13、エルサレムは過越の祭で人は一杯です。イエス様がエルサレムに来られると、群衆は大喜びでしゅろの枝を手に取って、イエス様を迎えます。しゅろは勝利の木と呼ばれていました。
 群衆はイエス様を凱旋将軍のごとく、お迎えするわけです。しかし、イエス様はこの後、4日もすると十字架にかかられ死を迎えます。イエス様はそれをご存じの上で従容として苦難の道を進みます。人類の凡ての罪を負い、人類を悔い改めに導き、かつ天にまで送られるために、父なる神様と共々に御計画を着々と進めて行かれるのです。
 それは本当は勝利への道です。この十字架のご苦難は、一度は陰府の門に下らねばならぬご苦難の道でもあり、また歓喜の門に至る道であります。悪魔とひと勝負、更に厳しい戦いであることは充分分かっていますが、それはまた、復活されて人類のあがないの御業を成就する祝福の道でもあります。
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 イエス様の十字架は天界の秘義です。世界の宗教では、仏教とイスラム教が、三大宗教だと言われます。しかし、仏教もイスラム教も、人間満足の生活教です。キリスト教は天地万物の創造主なる神様が、ご自身が満足なさるための宗教です。人間が修業したり、悟ったり、人間が考えた宗教ではないのです。
 仏教は人間釈尊が人生無常なりと修業して悟った教えです。みんなも同じように修業して悟りなさいと言う。
 イスラム教は唯一の神アッラーを信じる。神の律法を絶対守ること。ユダヤ教、キリスト教の聖書も同じように大切にする。しかし最高の教師はマホメットである。マホメットが啓示を受けて書いたコーランをしっかり守れ。厳格です。
 キリスト教は「キリストを信じる」。仏教は「仏法を悟る」。イスラム教は「コーランを守る」と、まとめてみました。
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 小生の信仰とは、前文のように「キリストを信じる」ことです。「キリストを信じる」とは「キリストさんが居たことを信じる」のではありません。
 簡単に言いましょうか。「キリストを信じるとは、キリスト様が私の一切を引き受けてくれることを、ズバリ信じることです」。
 お金が欲しいですか、イエス様はお金以上のものをくれますよ。病気を治してほしいですか。イエス様は、まず病気を心配しない心をくれますよ。旦那様と本当に仲よくしたい。そう、あなたがまず、あなた自身と仲良くすることです。良い職業は無いでしょうか。無職でやっていけるコツがあるのですよ。《く》


私は伝道者失格です。 

 私はどう考えても、「伝道者」としては失格者のようである。私のような、顕示欲、名誉欲の強い人間は、得てして伝道者になりたがる。実際また此の世の中ではこういう人間が「伝道者」に向いているのである。だから、私には自分自身を大衆伝道者として大成するのではないかと自惚れていた時代があった。今考えれば笑止な話だが、妻なども私を世界一の伝道者のように思っていた。
 私が伝道者になれない最大の原因は、私がしょっちゅう自分の現位置に安住できず、そこから出奔するくせがある。それを心配しているせいだと思う。何べんも何べんもカラを脱いで変身したことのある前科者は、変身前の体で恋愛して、変身後に相手を失恋させる。その辛さに恋することをこわく思うだろう。もしも人間が体のうわべだけで恋愛するものであるとすれば。
 私は一人のクリスチャンであるが、それ以上に、「真実」の探求者である。キリスト教をキリスト教の故に、聖書を聖書の故に信じるのでなく、「真実」の故にキリスト教を信じ、聖書を信じるのである。キリスト教に、また聖書に、「真実」にそむく処があれば、私はその分だけキリスト教を、また聖書を信じない。これは誤解を招きやすい処であるが、たとえば私が父を愛している。父の人格を信じている。しかし、父が感ちがいして誤った記憶や誤った認識をしているならば、その分だけ父の言葉を信じない。しかし、父の人格を信じないとか、父を愛さないとかいうのではない。いや、その人格は信じられない程、野卑でウソつきの父であっても、子はその父を愛するということがある。ヨブが神に降参したのは、多分にそういう処がある。ヨブには神の正義も愛も信じられなかったけれど、しかもヨブは神の前に降参した。それが、信仰である。
 「聖書は誤りなき神の言葉である」というのは、たしかに一面の真理であるが、また聖書に科学的誤認の記事の多いことも(少なくともあるということは)事実であろう。信仰とは、そういう形骸的な事柄を丸暗記して「信じた」「信じた」とはしゃいでいるようなカルタあそびのようなことではない。
 信仰とは、「宇宙(天文学的宇宙にあらず)の真実」に接触した、あるいはそれを自覚したイノチを生きる心の様(さま)を言う言葉である。その心は「日に新た」である。「古きは過ぎ去り、見よ新しくされたり」である。毎日変身である。「君子は豹変す」である。
 いわゆる「伝道者」は、自分が今もっている信仰、信条、宗教的思想を至高最善のものと自信をもっていなければならぬ。それがなければなかなか伝道はやれない。少なくとも創価学会風の戦闘的伝道(初代キリスト教会はそんなふうであった)はできない。
 ところが、私は自分が今持っている信仰に百%の満足ができないのだ。そんな事では、到底、他の宗教の批難攻撃はできない。しかし、伝道とは、まず他の宗教、信仰、教義を(表面では何と言おうと)叩きつぶして、人を自分の信仰陣営に取り込むことを言う。私はそういう伝道者にはなれそうにもない。
 私が今、目標としている信仰(と言い得るならば)はキリスト教というわくも、宗教というわくもはみ出してしまい、ただただ、「イノチ」とでも曰(い)うべき宇宙の根源者への回帰(or目ざめ、交わり)である。こういう回帰運動に魂が躍動しはじめると、日毎自らが己におどろき、あたりの風光に眺め入っているというふうであるから、巷に出ていって人を引っぱってくるというていの伝道精神がなくなってしまう。
 他宗教や無神論と溶解しあった純信仰、それは「真実」の炎にとかされたルツボの中で可能なことでなかろうか。生きているというだけで、そういう炎を反映してみせる人物になりたいと思う。それが私のねがいである。(1972.7.14「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)

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by hioka-wahaha | 2011-04-19 09:58 | 日岡だより
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