No.482 「聖潔の教え」について 2011.4.3

「聖潔の教え」について 

 クリスチャンたる者、誰でも清い生活を送りたい、神様の聖さに満たされた品性を得たいと思うでしょう。しかし、
 その事について確信を持って教えて下さる方は案外少ないのです。
 いろいろ異論もあります。そんな生活や、人が保ち得る品性があろうとは思えないという方々も多いのです。
 いわゆるキリスト教界(!)に於いて、その事をはっきり語ってくれるのは、聖潔派ですが、その聖潔派の中でさえ分裂が起こり、相当昔の話ですが、財産問題で争いが起こったりして、「何が聖潔だ」とがっかりさせられたこともあります。
 聖潔派の中での問題は、「私は信仰によって完全な聖潔の心や生活を体得できるはずだ」と、その教理を信じている人はあっても、実際に「私は清められている。ほら、この通り」と、自信をもって語ってくれる人は少ないのです。
 また、聖潔のことなど問題にしない人々もいます。そんなけちくさいことは言わないで、堂々と聖霊の力をもって大胆に生きようではないか、というがむしゃらなタイプです。カリスマ派、また手島先生のマクヤ流ですね。
 聖潔派の人々の問題点は、自分の行動や心の在り方について反省しすぎるため、律法的に過ぎ、或いは亦、自分の生きざまを誇りすぎて、人を見下し批判するタイプの人たちが出やすいことにもあります。
 私がお勧めしたい聖潔的信仰の在り方は、イエス様の臨在を体得して生きて行く道です。次の御言葉をあなたのものにしてください。
「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり」(ガラテヤ 2:20 文語)
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 ここで、信仰ということについて、ご留意願いたいことを付言します。
 信仰という事柄は、一種の神秘体験です。「信じます」と告白しさえすれば良い、ということではありません。
 勿論、信仰を口で告白すると、信仰そのものが自分の内に実現することは屡々体験でき、また客観的にしばしば確認できたことでもあります。しかし常にそれが実現するとも言えません。やはり聖霊による神秘な事件です。
 「信じます」と告白して、信じたつもりになることではありません。既に私はイエス様を信じている、というその私の事実が私自身のこととして確信できるという、その事実です。
 今、この原稿を作っている時に、伊予三島真光教会の故・金田福一先生の「キリストの内住」という古い本が、古い書籍の棚の中から出てきました。
 これです。「キリストの内住」、イエス様が私の内に生き生きと生きておられる、その「内面の真実」です。それが金田先生の強調されるところです。
 平明に信仰を淡々と語る金田先生は最も私の信頼出来た先生がたの一人でした。
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 キリスト信仰の第一番は、イエス様の十字架の死により、私の罪は消された、ということです。
 イエス様は私の罪をご自身の背に背負って地獄に下ってくださった。そこで、イエス様は一旦地獄で罪と共に死んで下さって、そこから復活された。古今、地獄の底まで行って、そこから地上に帰って来たのはイエス様お一人だけです。
 イエス様の十字架の傷跡は地獄に対する勝利の刃です。これこそ、地獄から地上に隠れて上がってくる悪霊どもへの勝利の剣です。事実、この勝利の剣は悪霊どもへの厳しい武器です。悪霊どもは震え上がって飛び退いてしまいます。
 さあ、この霊的武器をもって、悪魔の私たちをだまそうとする戦法に打ち勝ちましょう。
 悪魔の語ることは常に偽りです。悪魔の言葉にだまされないためには、いつも聖書のみ言葉と私たちの内なる魂に語りかけてくださる聖霊様の言葉に注意を傾けることです。
 以上のことを言い替えれば、常に聖書の言葉をよく学んで、それをあなたの良心とするのです。いざと言うとき、恐れの起こる時、悪魔が誘惑してくる時、常に聖書のみ言葉に学んでいる魂には、あなたを護る良心が出来上がっています。安心してご自分の良心に従いなさい。
 そして、とても打ち勝てないと思うほどの強い恐怖心や、悪魔の誘惑が私たちを襲う時が来ても、イエス様の十字架の血潮により断固として勝利を宣告しましょう。《く》


祈りのコンサート 

 大分宣教協力会の委員の先生がたから、東日本大震災支援の合同祈祷会を開こうと言う提案がありました。そして素晴らしいアッピールを作って下さった。言わく、「祈りのコンサート・大分」!
 コンサートという言葉は音楽の演奏会などに使われますが、元々は「一致したことを共同で行う」という事だそうです。
 そこで「祈りのコンサート」の提唱です。教会活動というものは凡てコンサートだ、と言って良いのかも知れません。
 毎月11日、また他の日でも、教会合同で、また各教会で、出来ることから始めようというプランらしい。私は大賛成です。当教会でも早速始めましょう。又、合同の集会にも参加しましょう。
 礼拝そのものが一致のコンサート、地域の教会もコンサート、教会の信徒の皆さんもコンサート、各部会や、任意の小集会もコンサート、各御家庭でもコンサート、いやそれぞれ分かれていても共通意識で一致の祈りを捧げている、コンサートの教会です。神様の恵みに満たされて、日本の全教会の凡てがコンサートされますように祈りましょう。《く》

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by hioka-wahaha | 2011-04-05 10:30 | 日岡だより
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